賽尊命巷・  この世で一番怖《こわ》いのは、ずっと、あちこち跳《と》びはねている魅魅旭魅《らみもうりょう》だと思っていた。  闇《やみ》に、ちろちろと|蝋燭《ろうそく》の炎が揺《はのおゆ》れていた。  蛇《へげ》の舌のようなそれが、徐々《じよじょ》に近づいてくるのを見たとき、幼い子供は運命を悟《さと》った。  突然《とつぜん》やってきた『お役人様《ヤクニンサマ》』に、何もかももっていかれてから狂いだした歯車。  家からは粟《あわ》も黍《きげ》も一粒《ひとつぶ》残らず消え失《う》せ、わめいて怒《もカ》り狂《くる》った父。徴収《ちょうしゅう》もされなかった痩《や》せぎすの豚《ぶた》や犬を一頭ずつ|潰《つぶ》すごとに、母はのっべらぼうの顔になった。空腹で病癖《かんしやく》を起こし、弟《きょう》妹《だい》を辺り構わず殴《なぐ》りつけていた長兄の暴力も、このごろはめっきりやんだ。  会話らしい会話もなくなった。口をひらけば罵《ののし》りあいになったころはとうに過ぎた。日ごと鬼《おに》のような形相になっていく長兄、キョロキョロと落ち着かなげに目玉だけを動かす兄もいれば、何もかも|億劫《おっくう》なようにぼんやりと痩せた畑に座りこむだけの姉もいた。   ほんの時たま、誰《だれ》かが狂ったように泣いたり笑ったり、病癖を起こす。  誰も構わない中で、いちばん小さな彼が、いつも引きずりだされてその当たり所となった。  刻々と、ゆるやかに、『そのとき』は近づいてきていた。  だから、彼ほその蛇の舌が真夜中に近づいてくるのを見たとき、わかってしまった。  夜中に両親が貪《むさぼ》っているのを見た目から姿を消したはずの地燭。おそらくは、最後の理性で残しておいた、とっときの娘燭を、灯りに使ってしまうその意味を。  炎が近づく前に、土間で両親と長兄が相談していたことの意味を。 「……んだ。確かに殺すだけじゃもったいねぇべ。ありゃあ鶏《にわしこり》よりよっぽど食いでがある」 「だろ? ちびちび食べても五日はさ−」  蛇の舌が揺れるそばで、かたり、と小さな音がした。  子供には、なぜかそれが錠《左た》を手にする音だとわかった。 (おにが、くる)  家族の皮をかぶった、鬼が、じぶんをころLにくる。  両隣《りょうごなり》には、実りのない野良仕事に疲《つわ−》れ果て、寝息《自いき》も立てず泥《ごろ》のように|眠《ねむ》る兄姉《さようだい》たちがいた。   ー起こすことなど、できなかった。明け方までの、ほんの|僅《わず》かの休息なのに。  ひたりひたりと寄りくる死の足音に、全身がわななく。同時に頭のどこかで声がした。 (ぼくが、しねば、みんなが、たすかる)  たとえ、一時《い 「lとき》のその場しのぎだとしても。そして、自分も、ぶたれ、罵られ、泥をすする毎日から逃《のが》れることができるー。  目を開けた子供が見たのは、錠と、闇に薄《う寸》ぼんやりと浮《∴ノ》かぶ幽鬼《ゆ∴ノき》のような父の姿。  虚《うつ》ろに濁《にご》った目に、幼い末の|息子《むすこ 》に対する憐憫《れんげん》の情は一片《いつべん》もなかった。  当然のように自分が生きのびることしか頭にない、狂気《き上でつき》に満ちたその顔を見たとき、子供は不意に、ああ仕方ないのだと、ただそう思った。  なのに−斜《キな》めに振《・ト》り下ろされた錠を、避《よ》けてしまったのはなぜだったのだろう。  後ずさったのは無意識だった。灼《や》けた鉄のような熱い衝撃が《しようげさ》腹を裂《さ》いた瞬間、《し時んかん》なぜか自分の横からも血しぶきがあがった。  子供は、|倒《たお》れながら呆然と隣を見た。自分が避けたせいで、すべった錠は、姉の−。  夜陰《やいん》を切り裂いて、誰かの悲鳴が、あがった。  どれくらい経《た》ったのか−子供は、のろのろと血の噴《ふ》き出る腹を押さえて顔を上げた。  しんと静まりかえった家の中には、吐《ま》き気を|催《もよお》すほどの血臭と−死体の山があった。  錯乱《さくらん》した家族が、互《たが》いに殺し合ったと知るのは、もう少しあとのこと。  ただ彼は、無意識に外へ遭《−J》いずり始めた。 (……生キタイ)  この世でいちばん怖いのは、ずっと、あちこち跳びはねている魅魅旭魅だと思っていた。  けれど、違《ちが》った。 (生キタイ)  自分を殺そうとしたのは、父の皮をかぶった鬼ではなく、紛《まぎ》れもなく父だった。  家族、だった。  涙が《なふだ》流れた。怒りも悲しみもない。わけもなく、とめどなく、ぽろぽろとあふれて。  腹部の痛みは、もう感じなかった。ただ涙の熱さだけで彼は意識を繋《つな》ぎ、外へ這いずった。  真夜中。嘲笑《あぎわら》うかのような三日月。闇。ほうほうと鳴く、巣《ふくろう》の不気味な声。  このl世でいちばん怖いものの答えを、彼は知ってしまった。                                                                                     ヽノ  それでも、子供ほ、必死で手を伸《ぅ.V》ばした。  たとえこの世でいちばん怖くて醜《みにく》い生き物だとしても。 (ぼくはーイキタイ……)  それは、純粋《じゅんすい》なる生への渇望《かつぽう》。  伸ばした手は、地に落ちる寸前、誰かに掴《つか》まれた。 「……なんて、ことだ……!」  その声を耳にしたのを最後に、彼ほ何もかもを手放した。 『名は?』  深淵《しんえん》の間に落ちていきながら、子供はぼんやりとその問いに答えた。 『……月《げつ》……』  喝甘言日日日日日日日日適  黒《こく》州州都遠源《えんゆう》を、一人の男がおぼつかない足どりで歩いていた。   伸び放題の髪《かみ》と髭《ひげ》は、一応櫛《くし》を入れてはいるようだがボサボサで、砂と混じって白っぽい。  持っているのは重たげに背中で揺れるポロポロの布袋《ぬのぶくろ》と、杖《つえ》がわりの木の棒のみ。まとっているのはツギハギだらけの汚《よご》れた着物と藁蓑《わらみの》、底が抜《ぬ》けそうにすりへった杏《くつ》も男の長旅を物語る  そのなかで、男の知性に満ちた健《やさ》しげな眼差《まなぎ》しだけが、異質だった。  一見して歳《とし》の判別がつきにくいが、よく見れば老人ではなく、まだ四十半ばほどに見える。   男は州都のにぎやかな喧燥《けんそ・フ》にまごつくように大路の隅《すみ》を歩きながらも、その足どりは目的地を一心に目指して迷うことはなかった。   朝から晩までひたすらに歩いて、夜になったら雨風を凌《しの》げそうな軒《のき》の下で眠り、またひたすらに歩く。そして−彼がようやく立ち止まったのは。   黒州州府、遠溝城の大門前だった。   門衛は男の乞食《こじき》同然の身なりを見ても嫌《いや》な顔一つせず、州城に用があることを知ると丁寧《ていねい》に順番待ちの列に案内した。くたびれたというのもお世辞になりそうな彼の様子に、順列の札を  渡《わた》すから、呼ぶまでどこかで|休憩《きゅうけい》していたらどうかとまで言ってくれた。  男はにっこりと笑って丁寧にそれを断り、他州より少し早い冬を迎《むか》えた寒日天《さむぞ・り》の下、列にきちんと並んでゆっくりと進む流れにただ身を任せた。  彼はまるで、日にしたものすべてをそっと心に仕舞《し童》いこむように、鉾を巡《けとみめぐ》らせた。  楽しげな家族連れに類《ほお》をゆるめ、小鳥の羽ばたきに耳を澄《す》ませる。冬の上天は、どこまでも高く透明《レ了りめい》に、鈴《�ず》の音さえ聞こえそうなほど澄みきって−彼はひとつ仰向《ムおむ》くと、深く深く空気を吸いこんだ。生きていることを感謝するかのように、日天《そら》をうつす眼差しがやわらかく和《トユー》む。  人の波がゆるやかに大門に飲みこまれ、吐き出されていく。  彼自身もその一人となって大門をくぐり、再び出てきたとき、背にしょった袋はくたりと軽く垂れていた。男は遠沸城を振り返り1感謝の意を示すように深々と頭を下げた。  彼はまた、元きた道を同じように戻《もソ一》った。今度は少し歩調をゆるめて。  人々は彼の姿を見て、水や、食べ物や、杏や、寒さを凌ぐ肩掛《かたか》けや! 一晩の宿を提供しょうとさえしてくれた。  彼は急いでいた行きと違い、丁寧に頭を下げてそれらを感謝とともに受けた。  彼の一顔から、|微笑《ほほえ》みが絶えることはなかった。  行くところはあるのかと心配そうに|訊《き》く州都城郭《じょうかく》門衛に優しい笑顔で背《うなず》いて、彼はある薄《うす》暗《ぐ・り》い夜明け、州都遠溝を出た。  どこかで、|一斉《いっせい》に鳥が羽ばたく音がした。  さくさくと、霜《し一じ》が耳に快い音を立てた。  水のせせらぎが遠くで聞こえ、冬支度《いレた! 、》をしたむきだしの白い梢が《こずえ》寒そうに揺れる。  枯《か》れたような冬でも、春を待つ生命《いーり・ら》が息づいている。  彼は少し歩き、一本の大樹を見つけ、近づいて寄りかかり、コトンと腰《こし》を下ろした。  凍《こご》えるような冬の風も、生きていることを証《あかし》立ててくれる。  どこまでも、世界は彼に優しかった。          えいィ.つ 「……影月」  男は、明けゆく薄藍《うすあい》の臭《そ・り》を仰《あお》いで、にっこりと子供のように破顔した。 「約束を、果たしたよ。……間に合って、良かった」  彼の心まで運ぶように、風が遠くまで渡る。 「君に会えて、君と過ごして、君と生きてー……私は」  彼こそが世界を愛しているような、日だまりのように|穏《おだ》やかな噴《ささや》きだった。 「本当に、幸せだった」  目を細める。まるで、このうえない宝ものを目にしているかのようにまぶしげに! ——完彼は、彼にとって最後の世界を昨《!?とみ》だけで愛《いと》おしく抱きしめる。 「……先に行って、君を、待っているから」  ゆっくりと陵毛《まつげ》がおりて、|膝《ひざ》からこぼれた右手がやわらかく白い大地を叩《たた》いた。  優しすぎる微笑みを浮かべたまま、彼は、もう二度と目覚めることはなかった。  〜もう、二度と。         歩容ゆ曝患  戒壇《二れん》城の∴室で寝《ね》ずに本を読んでいた影月は、その瞬間、ふっと窓を見上げた。  夜明けの目天に、弧《こ》を描《えが》いて星が一筋、天を駆《か》けた。  影月は蛙目《け」うもく》し−そして、胸をおさえてよろめいた。  何かが、心から抜け落ちたのを、影月ははっきりと悟《七しレ一》った。  そして、それが何であるかも。  やっく閉じた両の|瞼《まぶた》から、涙があふれた。  幾《l′\》筋も幾筋も頬を伝い落ちるそれを、ぬぐいもせずに影月はただ声なく泣いた。 「……あ、堂主《どうし腫》様……」                                                                                                                     −ごー  消えゆこうとする心をつかむかのように左胸をかき抱《...′ノ》く。 「……堂…主様……!」  影月は何度も何度も繰《′Lヽ》り返しその名を呼んだ。かすれたその噴きは、地面に落ちたら吸いこまれて消えてしまいそうなほど小さく。  血を吐くような魂切《たよぎ》る痛異《つうこく》は、空気さえ悲しみの色に染めあげた。  ……それでも、夜は、明ける。  指の|隙間《すきま 》の遥《はる》かな東で、かぎろいがはの白く揺《ゆ》れる。  涙はやまない。とめどなくあふれて歪《ゆが》む視界が、光を|遮《さえぎ》る。 「……おやすみなさい……堂主様……」  耐《た》えされず、くしゃくしゃに顔を歪めて、影月は声なき|絶叫《ぜっきょう》をあげた。 「  −  1…‥!」  ダソ、と打ちつけるように背を|壁《かべ》にぶつけ、ずるずると座りこむ。 「……おやすみなさい堂主様……」   この世の誰《だれ》よりも愛する人へ、影月は最後の言葉を送る。 「どうか、安らかなる|眠《ねむ》りを……」   そして影月は砂時計の音を聞く。  止まっていた時が、|容赦《ようしゃ》なくすべり落ち始める、その無情なる命《すな》の音《ね》を。       ・髄論態・  とん、とん、と指が|椅子《いす》の腕《うで》を叩く音がする。 「……茶春姫《さしゅ人き》は、ただの人間と婚姻《こんいん》を結びましたか……」  昔がやむ。苛立《いらだ》ち半分、あきらめ半分の|溜息《ためいき》が室に落ちる。 「まったく、つくづく英姫《えいき》は一族に逆らいつづける……。放っておいたのが裏目に出たとほいえ、よく我らから異能の娘を隠《むすめかノ、》しっづけたものです。久万ぶりに役に立ちそうな娘だったものを……。だが生娘《きむすめ》でないならもはや意味はない」若い声だったが、昏《くら》い水底《みなそこ》のような深みを帯びて、歳は判じかねた。 「……いいでしょう。収穫《しゅうかく》ほありました。————二つ」  ゆるく編んだ髪からこぼれた一筋が、さらりと音を立てる。銀白色に金をひとしずく溶《レ1》かしこんだかのような月光つむぎの銀髪《ざんはつ》。漆黒の双陣《し? Jノ、・てうfう》は夜よりもなお黒く、それを縁《ふち》どる長く|繊細《せんさい》な陸毛も白銀。青ざめて見えるほどに白い手は、手にした真紅の|薔薇《ばら》をいっそう血のごとく鮮《あぎ》やかに浮《う》かびあがらせる。  まるで夜そのもののような青年は、くつくつと口の端《はし》で笑みをこぼした。 「年が明けたら、久方ぶりに貴陽《き−しでう》に行くとしましょうか」  闇《やみ》に浮かぶ白い指先が、ついと一輪挿《いちり′包さ》しに薔薇を活《�》ける。  そのとき流れた袖《そで》の色は、明けの日天のような薄藍。             けようしよ/、  別名を、繰色という。         密命密命�  深夜−�禁苑《さんえん》の奥にひっそりとたたずむ、静かな楼閣《ろうかく》の|天辺《てっぺん》で、城下を一望しながら宋太博《そうたいふ》は一人月見酒を楽しんでいた。そばには酒をついだ盃が《さかずき》二つ、静かに影を落とす。   不意に、そのうちの一つがさらわれた。  宋太博は隣《しこなり》に座った友を兄もせず、盃の酒をあおった。 「ようやく帰ってきたか。−終わったのか?」 「……終わった」  そのひとことで、宋太博は愛する旧友が今度こそ永久《し】こしえ》の眠りについたことを知った。   そうか、とだけ老将軍は|呟《つぶや》いた。  訊くことなど何もなかった。頑固《がんこ》なまでに自分と理想を|貫《つらぬ》いた男。最期《さいご》の最期まで、茶鴛洵《さえ人じ博ん》が変わることはない。下賜《わし》された�菊花《さつか》″のごとく、高貴・高潔・高尚の誉《こうしようはま》れそのままに。   ちらりと宋太博は隣に目をやった。 「なんだ、疲《つか》れた顔してやがるな」 「……英姫にこきつかわれての。まったくこのわしをこうも顎《あご》で使うのはあの女だけじゃ」  来たからには役に立てと尻《しり》を|蹴飛《けと》ばされ、|崩《くず》れかけていたとある宮《ヽ111》を支えさせられたのだ。   それを聞いた宋太博は腹を抱《かか》えて笑い出した。 「英姫も変わってないようだな」 「全っっ然じゃ」 「�女は、強いな」  英姫がどれほど茶鴛洵を愛し、愛されていたか、宋太博は知っている。心のすべてを|捧《ささ》げた男の死を胸に秘め、昂然《こうぜん》と歩きつづけるだけの、その強さ。  酒杯《しゅはい》に映る月が、揺らいだ。 「そうか……終わったか」  足伽《あしかせ》でしかなかった一族を、最後まで見捨てることのできなかった男がいた。切り捨てることもできたものを、ありもしない罪の汚名《おめい》をきてまで当主になり、沈《しず》みゆく一族の最後の一線でありつづけた。愛する|息子《むすこ 》夫婦が触手《しょくしゅ》につかまり、引きずりこまれてもなお。  そして幾度《いくど》も季節は巡《めぐ》り、御代《みよ》がかわり、寿命《さき》が見える歳《とし》になって。危ぶまれていた若き王の親政と、安定の萌《ヽ、ぎ》しを確かめたのちー茶家当主《、111》茶鴛抱は『謀反《むはん》を起こした�それは公《おおやけ》のもとに強権発動し、主立った茶一族を残らず調べ上げて|処刑《しょけい》するに|充分《じゅうぶん》な理由。  茶家を解体し、すべての膿《うふ》を出し《つ》尽くし、根底から再生させるたった一度の機会。  新しい時代と茶家の再生のために、大罪人として史書に刻まれることさえ辞さなかった男。 「いっつも一人で突《つ》っ走りやがって……つたく、俺らが揉《も》み消さわーわけねぇだろ|馬鹿《ばか》が」  どこまでも国と民《たみ》のことしか考えない筋金入りの馬鹿を輩出《はいし伶 「》した一族。                                                                                                                                          lJ  鴛洵一人がすべて背負って無理やり片をつけずとも、あの男の心を《r》継ぐ者は必ずいる。  あの男が為《な》してきたことを、その生き様を見つめ、受け継いでくれる者。 「……仲障《らゆうしょう》の、未の孫か。鴛泡がいちばん気にかけてた男だな。年明け、朝賀《ちょうが》にくるのか〜」 「英姫が蹴《′》っ飛ばしても寄越《よこ》すだろうて。喪中《もちゆ∴ノ》とかなんとか言ってられん。朝賀で新年の|挨拶《あいさつ》をして初めて公に当主と認められるんじゃからな」 「……鴛洵に、似てたか?」 「まだまだ遠く及《およ》ばぬがな。……よく、似ていたよ。気の|優《やさ》しすぎるきらいがあるがの」  宋太博は破顔すると、除《すさ》のない物腰《ものごし》で立ちあがった。そしてすらりと腰の剣《けん》を抜《ぬ》く。 「……これで、ようやく、鴛胸のヤツを葬送《お′\》ってやれる」  とん、と歩を踏《・ト》む。酔《よ》いなどものともせず、すべるように両の|爪先《つまさき》がいくつもの円を描いていく。迷いなく複雑な歩を踏みながら、重い剣を《つるぎ》軽々とめぐらす。  |普段《ふ だん》の武骨な老将からは思いも及ばぬほど見事に優美なーそれは葬送《そうそう》の剣舞《けんぶ》だった。   うつむいた宵《しょう》太師に、宋太博は静かな舞《まい》をつづけながら苦笑《くしょう》をもらした。 「宵……わしもそう遠くないうちに、お前より先に逝《ヽ一.》くんだぞ」 「……縁起《えんざ》でもないこというでない」 「何を悲しむ? 俺も鴛泡も、充分すぎるほど生きて、生きて、生きた。俺たちがいなくなっても、過ごした時が消えてなくなるわけじゃない」等太師はふいとそっぽを向いた。その表情《かお》は千の言葉よりも鮮やかに|寂《さび》しいと語っていた。  ……多分、自分がそんな顔をしていることさえ気づいていないだろう。この男の、こんな顔が見られる目がくるとは想像だにしなかった。  寂しいという感情を、この男は知ってしまったのだ。 「……疲れたら眠れ。生きるのに飽《あ》いたら、俺と鴛洵で迎《むか》えに行ってやる。約束してやるよ」影のように音もなく剣が舞《ま》う。そしてふわりと|喉元《のどもと》に突きつけられた切っ先を見つめて、宵大師は小さく 「約束じゃぞ」と呟いた。   ∵  露、F‥テ.、亘こ、邑ょ臣し..。、.∴草子去;∵∵満く竜北、虻渦流ゃ≡:二軍 「……愛してるよ』少しうつむき、やわらかな巻き毛を揺《わ》らして、唇の端《くちげろはし》だけで|微笑《ほほえ》んで。  甘く優しい声で、その言葉をただ別れのためだけに告げた。  煩《はお》を濡《む》らす氷のような涙《なみバ」》に、秀麗《しゅうれい》は一人真夜中に目覚める。   −そして今日もまた、ただ夜明けを待つ。                           晋         儀           屯                                                         r度憾� 「う〜ん……やっぱりろくなもんないわね……茶《�J》州がどうしてこんなに長い間放っておかれたのか、よおっくわかったわ……」 「……ですねー。ここまで何にもないといっそ天晴れですよねー……」秋の終わり、茶州の新州牧二人は墟璃《これん》城の一角で、山と積まれた書物と書簡の中に埋《う》もれてうなっていた。 「藍《ら人》州の龍牙塩湖《り仙うがえんこ》みたいなのがあれば塩の売買で一発大儲《おお一じう》けできるけど、それもなし。海塩精製は運搬《うんばん》費用が|莫大《ばくだい》だし……。木材も|駄目《だめ》ね。千里《せんり》山脈の良質な木はほとんど窯《こく》州に集中してるって書いてあるわ。作物のほうはどう?」 「駄目ですね。気候はそう悪くないのに、全体的に土地自体がひどく痩《や》せてるようです。毎年の作付けと収穫高を見る限り、売買できるはどの余剰《よじトそFj》農作物は無理です。というか、そもそも行商人がきませんからわー。皆《みな》さん糊口《ここう》を凌《しの》ぐだけで充分と思ってるのかもしれません」  調べた結果をやりとりしながら、秀麗は困ったように|眉《まゆ》を寄せた。 「そうよねー。妙に閉鎖《みょうへいさ》されてるのよね、茶州って。茶一族の専制豪族《ご∴ノそく》支配が長くて、中央からは長い間放っておかれて、他州との|交渉《こうしょう》も少ない。そうやって茶州内だけで循環《じゅんかん》してなんとか遣《や》り繰《ノ1》りしてたら、気づかないうちに他州との格差が広がっちやってたって感じょね……」 「�山″はどうでしたー? 鉄とか金銀のとれる鉱山、ありました?」 「……そもそも調べが入ってないところが盛りだくさんよ。でも、もしあってもやっぱりそれに頼《たよ》りきりって危ないわよね。どうせ取り尽くしたら終わりになっちゃうし……基幹とするなら、農作物みたいに毎年ある程度循環して、百年先も安心できるものがいいもの」 「じゃ、やっぱり……? L 「うん。あの案、頑張《がんば》ってまとめましょう。大枠《おおわく》は考えたし、あとは細々《こまごま》と詰《つ》めてっと」影月が空気を入れかえるために窓に寄るのを見ながら、秀麗も思いきり伸《の》びをした。長いあいだ同じ姿勢で座りっぱなしだったため\何気なく首を回すと物凄《ものすご》い音がした。 「……痛ったぁあ……。くーもう肩凝《かたこ》りまくり……」  コキコキと首を鳴らすと、視界をササササーッと黒い鞠《まり》のようなものが横切った。しかし秀席も今ではこの不思議物体(別名物《もの》の怪《け》)にとっくに順応できていた。  悪さの話は多々聞けど、秀麗が知る範囲《はんい》では実害は皆無《かいむ》である。たまにコロコロ転がるくらいなら、夕飯のおかずをカッ攫《きら》っていく鼠《ねずみ》や大事な書物を食い荒《あ》らす害虫のほうがよほど憎《に》っくき仇《かたさ》である。別に夜中に火の玉飛ばすわけでも脅《おど》かすわけでもなし、今では|邪魔《じゃま 》にならない範囲で適当に放っておくことにした。 「でも意外。影月くんがこんなに急いでコトを運ぶ人だとは思わなかったわ」 「え?あ、や、やっぱり、性急でしょうか」 「ううん。案自体は早めに出しとくことに越《こ》したことはないわよ。どのみち素人《しろ、つレし》なんだし、どんなに二人で考えたって穴だらけに決まってるもの。早いほうが州官《みんな》と議論して煮詰《につ》める時間がとれるわ。|驚《おどろ》いたのは、こんなにポソボン出してきたことよ。影月くんの性格からいって、少し様子見てからかなって思ってたから」影月はただ微笑んで、それに答えることはなかった。 「……ああ、見てください。締麗《されし.》な明けの莫《そら》ですよ」 「ん?……わ、ほんと」  影月が先ほど開けた窓からは、ずいぶん冷気をはらんできた風とともに、薄《よノす》ぼんやりとした明かりが射《さ》し込みはじめていた。  闇《やみ》がゆっくりと追い払《はら》われ、濃《こ》い藍、薄紫−そして徐々《じよじょ》に紅色が差されていく。影月はその光景に目を|奪《うば》われたように、|黙《だま》って茜《あかね》さす日天を見つめていた。 「……龍蓮《りゆうれん》さんも、見つかりませんねー」  ポッッと呟いた影月に、秀麗も|溜息《ためいき》を落とした。  金華《きんか》で二人が龍蓮を追い払ってから、彼の消息は|煙《けむり》のようにつかめなくなった。  �茶州の禿鷹《はげたか》″の二人や春姫に行方《ゆくえ》を聞いてみたが、木簡を渡《わた》した後に向かった街道が、茶州の東、虎林《こりん》郡方面だったことしかわからなかった。州内とはいえ別の郡に入るには例の�双龍《そうりゆう》蓮泉《れんせん》″木簡の再発給をいずこかで受ける必要がある。けれど各郡府はもとより、全商連系列も藍《らん》家に関することでは一重《いちごう》たりとも情報を漏《も》らさない。  おかげで秀麗も影月も、いまだにお礼も——謝ることもできないでいた。 「そうね。あのときは切羽詰《せつぱつ》まってたから、ずいぶんキッイ追い払い方しちゃったものね。特に私。きっとすごく……傷つけたわね。……悪いことをしたわ」 「でも秀麗さんが言わなかったら、僕が言ってましたよ」影月は瞳《ひとみ》をゆっくりと閉じた。 「僕、龍蓮さん好きですからー」  鳥のさえずる高い聾《こえ》と、|一斉《いっせい》に羽ばたく羽音が聞こえる。  夜明けが、近い。  秀麗はもう一度、そうね、と|呟《つぶや》いた。 「私もよ。だから|後悔《こうかい》はしてないけど、……もう少し言い様があったわよね」 「でもあそこまで言わなくちゃ、龍蓮さん絶対帰りませんでしたよ。下手な言い訳も、|誤魔化《ごまか》しも、|一切《いっさい》きかない人ですからー」へらへら笑って笛を吹《…、》いて、翌朝には姿を消していた。すべてにおいて本質を見抜《み血》く龍蓮は、言葉の裏に秘めたものを理解してくれたかもしれない。けれど違《らが》うかもしれない。たとえそうでも、投げつけた言葉が帳消しになるわけではない。  龍蓮の言葉に嘘《∴ノエ、》がないことを知っているから、まっすぐに向けてくれる龍蓮の心を少しでも傷つけたかと思うと、ひどく気分が|沈《しず》む。 「……暁時《あかとさ》って、散々見たけど、……一人きりで見るのは、きっと寂しいわね」  そのときだった。 「へえええ。散々見たんだ。んで、一一人ともこれからどんくらい夜明けを見る気なわけ」  |前触《まえぶ 》れもなくいきなり背後から聞こえてきた声に、秀麗と影月は|凍《こお》りついた。  ちょうど手近なお茶で喉《のご》を潤《うるお》していた影月は|一拍《いっぱく》のち盛大に咳《ゼ》き込み、秀麗はカラクリ人形のようにぎこちなく首を巡《めぐ》らした。 「えん、燕青《えんせい》……い、いつのまにそこに」 「姫さんっ! 影月1打つ−つつつ!!」  頭から湯気を立てて激怒している燕背を見て、たちまち秀麗は青ざめた。今までの会話は頭から丸ごと吹っ飛んだ。 「あ、燕青。や、別にね、今Rも徹夜《てつや》したわけじゃないのよ」  |珍《めずら》しく秀鹿は墓穴《ぼけつ》を射《ま》った。ハッと口許《くらもと》を押さえたがもう遅《おそ》かった。 「今日は絶対帰るって言ったよな? だから俺も静蘭《せいらん》も悠舜《紬うしゅん》も別の仕事してたんだよな? なんで|今頃《いまごろ》州牧邸《てい》で寝《ね》てるはずの二人がこんなとこで本に囲まれてんだ? なんで香鈴嬢《こうりんじよ∴ノ》ちゃんから『お帰りになっていませんが、途次《レし.じ》何かあったのではhって心配そうな文がくんのかな」怒《しわ》り心頭の燕斉に、秀麗はますます焦《あせ》った。�まずい、そういえば香鈴に目止めするのを忘れていた。 「ちちち違うのよ。あんまり疲《つか》れてたから、影月くんと二人で下城する前にここで仮眠《かみん》とろう                                 、J   、としてうっかり寝《 一》入《−ヽ》っちやってね。さっき起きたのよ。そう、ついさっきね」燕青ほ左頬の十字傷を引きつらせ、に〜つこりと笑った。 「へーそう。じゃ、その日の下の隈《くま》は刺青《いれずみ》かなんかかい。かっちょえーぞ」 「ほほほ。ありがと燕膏。王都ではやってたお呪《まじな》いなのよ。これであなたも小金持ち!」 「じゃ昨日までこの室、され〜に片づいてたはずだけど、なんでこんなに本であふれてるわけ」 「いやね、気のせいよ。もう歳《し」し》なんじゃないの。疲れ目なのよ。今度青汁つくってあげる」 「俺は毎朝健康体操必要なじーちゃんかよ! じゃ、同い年の野郎《やろう》にも|訊《き》くか。なー静蘭、絶対昨日まで本も料紙も墨《すみ》もなかったよな。やっぱお前も歳か。疲れ目か。青汁一緒に飲むか」  スッと扉脇《とげらわき》から姿を現した武官姿の青年に、秀麗は|絶叫《ぜっきょう》した。 「いやー! なんでいるの静蘭! 確か今朝から虎林郡に視察に行くはずじゃ」 「延期になりまして」  |優《やさ》しすぎる微笑《ぴしょう》に、秀麗の背筋が冷えた。あまり静蘭を怒らせたことはなかったが、時たまうっかり龍の尻尾《しっぱ》を踏《バ》んづけたときの恐《おそ》ろしさは骨身に染《し》みてわかっていた。 「ふっ……私もどうやら歳のようですね……」 「せ、静蘭なら絶対ステキなオジサマ時代に突入《とつにゅう》できるわ。奥様方にモテモチよ」  なだめたつもりだったが、途端《とたん》、カッと龍の眼光が赤く光った。 「−二人とも、きなさい。久々にお説教してさしあげます」  秀麗と影月はそろってガックリと肩《かた》を落としたのだった。         働尊顔爆鳴  静蘭の|容赦《ようしゃ》ないガ、、、ガ、、、説教がようやく終わると、郷《てい》悠舜がやんわりと引き継《つ》いだ。 「お二人とも、お仕事に熱心なのはとても嬉《うわ》しく思いますが、無理をして体を壊《こわ》されてはなんの意味もありません。きちんと休養し、体調を整えて|執務《しつむ》をとることも州牧としての大事なお勤めなのですよ。徹夜でぼうっとした頭で諸々《もろもろ》の案件を正確に把握《ほあく》し、適切な判断を下せるとお思いですか? あとで自分が何にどんな裁可を下したか忘れないと言い切れますか?」秀麗と影月は縮こまって悠舜の|穏《おだ》やかな諭《さと》しに身を小さくしていた。 「焦るお気持ちもわかります。実際、お二人には人より無理をしてなるべく早く多くを勉強して頂かなければなりません。他《はか》の官吏《かんり》たちが長年経験と実績を積み、一段ずつ官位を上げてようやく任される地位をいきなり拝命した上、州牧職は名ばかりの官位でもありませんからね。  けれど何ごとも過ぎれば毒となります。むやみやたらに徹夜を重ねて書物と向き合うことを良しとするのは、大きな間違いですよ」燕青も同意して大きく背《うなず》いた。 「そおそ。体が資本なんだぜ。それにな、茶家当主が克泡に代替《こノ、じゅんだいが》わりしたんだ。これからは腰《こし》を据《寸》えてじっくり州政事に取り組めるんだぞ。慌《あわ》てる必要なんぎどこにもないだろ」正論ゆえに反論などできなかった。秀麗はとりあえず素直《寸左お》に謝っておこうと思ったのだが、その前に影月がふっと顔を上げた。 「……でも、人生何が起こるかわかりませんよね?」 「なにう・L                             l▼ 「明日うっかり毒キノコを食べてポクッと逝《し》くかもしれませんし、川に転げ落ちて流れ流れて須弥《し軸み》海まで行ってしまうかも℃れませんよねー?通りすがりのお猿《さる》さんに投げつけられた石の当たり所が悪くて手当の甲斐《みし》なくそのまま昇天《しよ・りてん》してしまうことだって考えられますしいや最後は絶対ありえないから、と誰《だれ》もが思ったが、影月はどこまでも|真面目《まじめ》だった。 「明日のことなんて……いいえ、一寸先のことだって、本当は何の保証もありません。いつまで腰を据えてできるかーその時間があるかなんて、誰にもわからないんです。だから、できるときにできることを、無理をしてでもやりたいと、僕は思うんですー」   いつも受け身に思えるほどよく人の意見をきく影月の思わぬ反駁《は人lぱく》に、秀麗は驚いた。しかも今回理があるのほ明らかに悠舜のほうなのに、ささやかながら珍しくはっきり抵抗《ていこう》している。   影月が意外と頑固《が人二》なことを知っている燕青は、眉間《みけ人》をもみほぐした。 「……十三のくせになんつー|坊主《ぼうず 》みたいな考え方をって……そういやお前、十二で国試受けようと思う奴《やつ》だもんなぁ。そっからして人より十年急いでるもんな……」 「その通りですー。座右の銘《めい》は、時は金なり、です!」 「ほほう。すばらしーぞ。だけどな影月」  燕青はビシッと影月のおでこを軽く弾《はじ》いた。 「今のお前は通りすがりの猿に石投げられてポックリ逝くより、過労死で突然死《とつぜんし》するはうがよっぽどありえんだよ。だいたい十三なんてなー、もろ成長期で何しても眠《ねむ》い時期だろ。食ったぶんだけでかくなって寝て起きたら身長変わってるくらいなんだぜ。お前は絶対栄養全部頭に回してるからちっとも背え伸《の》びねーんだ。少しは体に分配しろ」  それを聞いた悠舜は、燕青の|爪先《つまさき》から頭の天辺まで眺《なが》めて|納得《なっとく》したように肯いた。   燕背は言われる前に自分で言った。 「うるせー、どうせ俺はにょきにょき伸びたよ。いいか影月、やりたいことやるにしてもまず元気なのが大前提だろ。天秤釣《てんぴんつ》り合わせるのが大事だって言ってんだ。わかるよな?」 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですー。僕、体だけは|丈夫《じょうぶ》ですから」 「……わかってねーわけかい。経験豊富な俺たちの助言を退けるとはイイ度胸だな影月。で?  姫さんはビーなんだ。やっぱ猿に石投げられてポックリを心配してんのか」  燕青のこめかみに青筋が浮《lフ》かんできたのを見て、秀麗はつい余計なことを言ってしまった。 「燕青、今度煮干《こ一ま》したくさんつくってあげるから」 「俺のイライラは姫さんたちがちゃんと休息とってくれたらおさまるの! 小魚食うよりよっぽど効くから! てゆーかそれ以外におさまらないからなっ!!」ぷんぷんと怒る燕青は非常に珍しい。裏返せばそれは、彼がいかに心配してくれているかを如実《によじつ》に物語っていた。  秀麗は潔《し、きざよ》ぐ頭を下げた。 「心配かけてごめんなさい。これからなるべく気をつけるから。ね、影月くん」 「そうですわー。それなりに」 「……『なるべく』と『それなり』かよ……」  なんだかんだいって二人とも最後の一線ほ|譲《ゆず》らない。彼らなりに必死で未熟な部分を補おうとする意志の結果であることはわかっているが、それにしたってとんでもなく頑固である。  何やらこそこそ話しはじめた二人を見ながら、燕青は疲れたように肩を落とした。 「姫さんも影月も、他人事《けとごと》はよく気がつくくせに自分のこととなるとはんっと適当なんだもんなー……。こりゃサジ加減覚えるまでよく兄とかわーとなぁ……」始業準備にと、墨を足していた悠舜が感心したように目を燈《みは》った。 「……ずいぶんと大人になりましたね、燕青。かわいらしい弟妹ができて兄の自覚に目覚めたガキ大将のようですよ。なんと感慨《かんがい》深い……思わず目頭《めがし・り》が熱くなります」 「ほっとけ! だいたいなー、お前、俺に無埋するなとか優しーこと言ったことあったか? L 「無尽蔵《むじんぞう》の体力の持ち主にそんなことを言う必要がありますか。第一、いつもふらふらしていて食い逃《に》げの請求書ば《せいきゅうしょ》かりドカドカ城に届くような州牧にそんな言葉は必要ありません。あまりの情けなさに目の前が真っ暗になりましたよ。馬車馬のようにこき使われて当然です」 「あ、あれはだってツケがきくってゆーから−ん? なんだこれ」  あとずさった燕背は卓子《たくし》に手をつこうとLー見慣れない|粗末《そ まつ》な巻書に気づいた。 「あ! それはー!」   秀麗と影月が制止する間もなく、燕青は巻書をほどいてしまった。 「ま、まだ完成してな−」   ざっと斜《なな》め読みを始めた燕青から、二人で巻書を取り戻《もご》そうとわたわたと伸びあがる。しかしひょいっと上に逃げられてしまい、伸ばした二人の手はむなしく空を切った。もう二人がいくらぴょこぴょこ飛んでもかすりもしない。 「ー悠舜」   ややあって、燕青は真顔で巻書を悠舜に放り投げた。まるで猫《ねこ》じゃらしを振《ー》られた猫のごとく、秀麗と影月が巻書を追いかける。しかしそんな二人を燕青がつかまえて、軽々と両肩に担《かつ》ぎ上げてしまった。 「きゃー何するのよ燕青!」 「あ、あれはまだまとまってないんですー!」  二人がバタバタ暴れても燕青の腕は小堀《二ゆ》るぎもしなかった。  そのあいだに悠舜も巻書を;訳し−徐々《.じよ‥しょ》に表情が変化する。  優しげな眼差《まなざ》しは変わらねど、その双陣《そ∴ノぼう》には深慮《しんりよ》の光が色濃《いろこ》く宿り始める。 「……燕青、すぐに主立った州官たちを調整させて空き時間をつくらせ、柴凛殿《さいりんどめ》を全商連から呼んでください。お二人はこの件に関する資料を大至急おそろえになって下さいね」燕青はにやっと笑って肯くと、二人を下ろす。 「遅《おそ》くとも正午前にはこの件に関する州議に入ります」  二人の上司のぎょっとした顔を見ながら、悠舜はにっこりと|微笑《ほほえ》んだ。   ー非常に|面白《おもしろ》い、と二人の州牧の意見を聞いた州営たちは沸《わ》き立った。 「勿論《もらろ人》、穴だらけではありますが、《▼》詰める価値は|充分《じゅうぶん》あります」  俄然《がぜ人》子供のように張りきり出した州官たちに、燕青はやれやれと右耳をほじくった。現在の茶州官は総じて長年茶家の|脅迫《きょうはく》にも踏《・い》みとどまり、文字通り命も省みず政事を志した硬骨《こう二つ》の官吏たちである。能吏《▼のうhリ》であると同時に、ある意味かなりの変人ぞろいといってよかった。 「……ふっーの州府ならさぁ、絶対『バカじゃん』って一蹴《いつしゅう》するよなー」  そもそも十代の子供二人など、たとえ回議を及第《き抽うだい》した正規の官吏とはいえ単なるお飾《かぎ》りとし  か思わず、ここまで意見もあがってこない。 「ああ、あなたが言い出したなら言ったでしょうな」 「む七ろ狸《たぬき》に取り憑《つ》かれてるからお祓《はら》いすべきだと申し上げたでしょうね」 「|小僧《こ ぞう》こんなまともな案なら早く出しゃーがれと、わしゃあ硯《すずl)》投げつけとったわぁ」  怒涛《どとう》の切り返しに、燕青は机案《つくえ》に額をぶつけたくなった。 「……お前ら……ほんっと俺んときと態度違《ちが》うよな……。俺にも姫さんみたいに花くれよ花−。前州牧で現州事《しゅういん》の俺様にちょっとくらい敬意払《はら》ってくれたっていいだろ」  州官たちから贈《おノ、》られた花々で華《はな》やかに彩《いろご》られた州牧室を初めて見たとき、燕青は唖然《あぜん》としたものだ。冬が近づいてさすがに少なくなったが、今でもなにがしかの花が絶えることはない。  しかし州官たちはそろって燕青を鼻で笑い飛ばした。 「姫さんなどとなれなれしく呼ばないでください」 「あなたに花贈ってどうするんですか。食べるんですか。頭に咲《さ》かすんですか」 「それ以上のボケ防止に木瓜《ヂ.1ナ′》の花なら贈って差し上げるが」  もちろん悠舜ほまるで庇《かば》おうともしないどころか、にこやかに領《うなず》いている。  燕青ほぶるぶると震《ふる》えて秀麗と影月を振り返った。 「〜ノ聞いたかこの言い草!?こんなやつらなんだぞ! ああ体張って茶家の|刺客《し かく》から守ってやってた|無邪気《む じゃき 》な少年時代が恨《う・り》めしいぜこんちくしょう」秀麗と影月は視線を見交《みか》わして苦笑《/ヽしょう》した。  州官たちの言葉の裏にほ、燕背に対する紛《まぎ》れもない絶対の信頼が溢《Lん・りし.あふ》れている。彼らが秀麗たちに寄せてくれる信頼は、詰まるところ浪《ろう》燕青と鄭《てい》悠舜の存在によるところが大きい。十七の少年州牧による十年を知っているからこそ、こうして耳を貸してくれるのだ。 「くっ、でもまだ著才《めいさい》がここにいるよりやマシか……」  燕青のひと言に、その場の空気が|凍《こお》りついた。誰《だれ》もが尊敬の眼差しを秀麗に向けたかと思うと、各自悪夢を思いだしたかのように苦悩《くの∴ノ》の表情で目を逸《そ》らす。  秀麗と影月はいまだに州官たちのその反応がわからない。秘《.∫でー》の花をはじめ、秀麗に花枝を贈ってくれ、影月の頭を小動物にするように撫《な》でて去っていく著官吏《カ人り》は、二人にとって燕青と悠舜に次いで頼《たよ》りがいのある州官だった。実際、官位も経験も能力もそれに見合うものだ。 「ね、ねえ燕青……」 「|訊《き》くな姫さん! 俺たちに言えるのはこれだけだぜ。あいつに貰《も・り》った花は押し花……いや、拓本《た′1ほ人》もとって百年先もとっとくんだ。いずれ超《ちょう》効き目ある魔《ま》よけの家宝になるからな」 「…………。…………。…………。」  悠舜でさえも日を合わせ渇のを避《斗.』》けるようにそっと斜めにうつむく始末である。  寡黙《かもく》で怜例《れいり》で深い知性が垣間見《カしょみ》える茶州府若手随一《でいいち》の有能官吏《かんり》(↑秀麗・影月談)者才はこうしていまだ謎《なぞ》の椎《と∫り》に包まれている。 「と、とにかくこの件……早々に検討を重ね、夏までにはしっかりした土台をー」 「おや、何をおっしゃいます」  悠舜ほやわらかな微笑みを浮かべ、州官の言葉を遮《さえギ』》った。 「夏までなど、機敏《きげん》にして果断に富んだ茶州官らしくない|悠長《ゆうちょう》なおっしゃりよう。|皆様《みなさま》には、ひと月で大枠《おおわく》を詰めていただきます」         きようふ         ちんもく  −恐怖に満ちた沈黙が落ちた。  誰かが、唾《つば》を飲みこむ昔がやけに大きく響《ひげ》いた。 「ひ、ひ、ひと月ですと……?」 「勿論ですよ。でなければ、こうして忙《いそが》しいなか、わざわざ皆様に|緊急《きんきゅう》招集などかけません。茶州府官吏に遠…理』『不可能』の文字はないというのが、皆様のご持論でございましたね? 通常業務もしっかりこなしつつ、頑張《がんげ》りましょうね。ご家族の方々に、今日からしばらく離《はな》れ小島で武者修行して参りますと、きちんと申し伝えて安心させてあげてくださいね」相変わらず|穏《おだ》やかで慈愛《じあい》に充《み》ち満ちた笑顔《えがお》なのに、その言葉には拒絶《きょぜつ》の|隙間《すきま 》もない。  秀麗と影月は、なぜ十年で茶州がここまで立ち直ったかの|一端《いったん》を垣間見たと思った。   いつもこぼれんばかりの|優《やさ》しさにあふれる悠舜も、政事にだけは|容赦《ようしゃ》なかった。  凍りついた雰囲気《ふんいさ》のなか、慣れている燕青だけが苦笑した。 「朝質に間に合わせろってこったよな? 悠舜」 「そうです。お二人が州牧でいらっしゃる間に、少しでも……」  端的《たんてき》な言葉でも、州官たちはすぐに察したように|一斉《いっせい》に顔つきを変えた。 「……そうですな。わかりました。朝賀出発までに大枠を詰めましょう」 「久々ですね、こういったことも。まあなんとかいたしますか」 「ところでその朝賀、案を詰めたなら、下手な者は送れませんぞ。今のうちに人選を」 「ええ。さぐりを入れるだけとはいえ、冷静で豪胆《ごうたん》かつ弁の立つ者を送らねば」 「中央に繋《つな》ぎをもっている者がえーぞい」 「高官位で見栄《みば》えとはったりのきくことも重要ですよ。でなくぼまず話も通りません」  見栄えとはったりまで考慮《こ∴∴りよ》に入れるところが茶州営といえる。 「……やはり、ここは著官吏か郵州事にご足労を−」 「なーに言ってんだお前ら。上司の仕事をかっさらうつもりかよ」  燕古は|呆《あき》れたようにまとまりかけた州営たちの意見を一掃《いlつlそう》した。 「娘《けめ》さんか影月の仕事に決まってんだろ」  ざわりと揺《け》れた室内に、燕青は破顔した。 「十年ぶりだろ。『州牧』が州外に出向くのなんてさ。もう茶州バカにすんじゃねーぞって、お城のお|偉《えら》いさんがたにガツソと一発かましてきてもらわんとな」            争冊数棚1・級澄+崩                                                      バl笹∴  朝賀〜新年に際し、朝廷《ちよ∴ノてい》百官はもとより七家をはじめとする名家の代表は勿論、各州府の高官も貴陽に馳《こ》せ参じ、王と御代を寿《ことは》ぐ。貴陽に国中の要人が集まる年に一度の機会のため、  水面下では相当の外交合戦が繰《く》り広げられる時節でもある。政略、引き抜《ぬ》き、|値踏《ねぶ》み、口利《き》きl次の除目の昇降格が決まるのもすべてはこの季節にかかっているといっても過言ではない。  ただ適当に新年の|挨拶《あいさつ》を言って帰ってくれはいいというものではなく、両一眉《りょうけん》に州府を背負い一挙一動に重責がかかる。何か事を仕《し》掛《か》けようとするならばなおさら責任は大きい。   −紅《——.つ》州牧が適任です、と言ったのは影月だった。 「……よかったの?」  その夜、久々に州牧邸《てい》に戻《もご》った秀麿と影月は、しかしながらやはり書物に埋《う》もれていた。  無理はしないと約束したが、燕青が飛んでこない範囲《はんい》の無理はしないといつまでたっても州府で役に立たない。 「秀麗さんが行くべきですよ。邵可《し上三/カ》さんも喜ぶでしょうし」                                                                                                                     、ノ  何かを言いかけた秀麗より先に、影月は言葉を《′》継いだ。 「それだけじゃありませんよ。適任なのはどう考えても秀麗さんのほうですから。わかっているでしょう? 使《ヽ》え《ヽ》る《ヽ》武《ヽ》器《ヽ》は《ヽ》多《ヽ》い《ヽ》ほ《ヽ》う《ヽ》が《ヽ》い《ヽ》い《ヽ》ですー」 「…………」 「それに、むしろ僕は秀麗さんに対してひどいことを言っているのかもしれませんよ。風当たりという点では、僕のほうが少ないはずですから。もしその上で交替《こうたい》をということであれば」 「はいそこまで」  秀麗は大きく|溜息《ためいき》をついた。 「わかったわ。私が行く」 「お願いしますー。悠舜さんと柴凛さんがご一緒《い 「一しょ》なんですから、|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。あ、それに克洵さんも一緒に行くことに決まったとか」 「そう。茶家新当主として新年顔見せですって。どうせ同じ時期に同じとこに行くなら、確かに一緒のほうが安全だものね」 「それに、旅ほ多いほうが|寂《さび》しくないですよー」……確かに適任と言う影月の言葉には一理ある。それと同時に、やはり秀麗を気遣《\、.つか》ってこの機会に半年ぶりの帰宅を勧《すす》めていることもまた事実なのである。  その優しさも、気遣いも、とても嬉《lソ 41》しい。けれど!。 「……ね、影月くん、ずっと気になってたんだけど」 「はいー?」 「あなた、黒州にいらっしゃるっていう堂主様を茶州《二 「ち》に呼んだりしないの? 考えてみれば国試受験から一年以上? そのくらい帰ってないじゃないの」書物をひっくり返していた秀腰は、その時の影月の表情に気づかなかった。 「思慮《しりよ》が足りなかった私も私だけど……あのね、もし堂主様が西華《せいか》村? だっけ、そこから出たがらないなら、貴陽から戻ったあと今度は私がお仕事肩代《かたが》わりするから、一度帰郷なさい。遅《おそ》いお正月休みってことで。いくらなんでも一回くらい元気な顔見せて、ちゃんと自分の日から状元及第《じょうげんきゅうだい》の報告して、州牧としてバリバリやってるって安心させてあげたほうがいいわ」  影月は不思議な微笑《げしょう》を|浮《う》かべた。嬉しそうでーけれどどこか脆《もろ》い硝子《がらナ》細工のような。 「……ありがとうございます。でも、いいんです」 「どうして。大切な人なんでしょう?」 「ええ、誰よりも」  影月は迷わず言い切った。それは決して|無邪気《む じゃき 》ではない、大人びた横顔だった。 「でも、約束したんです。後ろは振《ふ》り返らず、|精一杯《せいいっぱい》やることをやってくるって」  |僅《わず》かに垣間見えた翳《かげ》りは、秀麗が気づく前にいつもの笑顔にすり替《か》わってしまう。 「それに、西華村はものすごい辺郡《へんげ》なところにあるんですよー。黒州でも本当に端《はじ》っこで、いちばん近くの郵亭《ゆうてい》で最速の文を出しても貴陽まで何か月も平気でかかっちゃうくらいで。ここからだと千里山脈を迂回《.〕カも》しなくてはなりませんから、行って帰ってくるだけで半年以上かかっちゃいます。そんなに長いお休み、頂くわけにはいかないでしょう?」秀麗はふと引っかかりを覚えたが、それは形をとる前に影月の笑顔にかき消されてしまった〈 「異州に配属されるときをのんびり待ちますからー」 「……いつの話よ。まったく、影月くんて実は相当頑固《がんこ》よね」 「秀麗さんと同じくらいには。とりあえず『外交』はお任せしますー。燕青さんと一緒に 「。内政』のほう頑張っておきますから。二人州牧がいると、穴が空かなくていいですよねー」 「確かにね。そうだ、あともう一つ�」  そのとき、ほとほとと軽く扉が叩《とげらたた》かれた。 「秀麗様、お夜食をおつくりしたのですけれど、いかがですか」  香鈴の声に、秀麗は言いかけた言葉を飲みこんだ。 「ありがと香鈴。ちょっと待って、いま開けるから」  扉を開けると、ふわ、と食欲をそそる生姜《しようが》の良い|匂《にお》いが漂《ただよ》う。  影に溶《と》け込むように仔《たたず》んでいた香鈴は、丸い盆《ぼん》を手にしていた。その上にはたっぷりと汁《つゆ》が波打つ日の広い湯椀と、それを取り分ける汁汲《しるく》み、深い小椀が二客と陶器《し」うき》の勺子《れんげ》二本がされいに並べてあった。  香鈴は足の踏み場もない床《ゆか》を器用に縫《ぬ》い、唯義《時いいつ》‥物の侵略《し八りや′\》を受けていない茶卓に盆を置くと小椀と汁汲みをとりあげた。まず一客汁《つゆ》をよそうと、こぼさないよう慎重《しんちょう》に秀麗の書卓に運ぶ。  山積する巻書や書物の問にわずかにあいた隙間を見つけて、勺子《れ人げ》と一緒に置いた。 「どうぞお召《め》し上がり下さいませ、秀麗様」 「ありがとう。わ……肉団子のおつゆね。なんて費沢《ぜいた′1》なし一日大に浮いているのは鶏《とり》を叩いて|挽肉《ひきにく》にし、こねて団子にしたもの。他《ほか》にモヤシや冬菜を入れて、蒸してつくった栄養満点の汁ものだ。勺子《−1んげ》で順々に汁と肉団子をすすりこむ。ーお世辞抜きで感嘆《かんたん》した。 「すごくおいしいわ。おつゆの味付けは勿論《一じちろん》、肉団子にもよく染《し》みててトロトロ。文句なし」秀麗の満面の笑みに、香鈴も嬉しそうに頬《ほお》をほころばせた。  そして次にもう一客に手を伸《の》ばす。  秀麿は勺子《れんげ》で生妾の効いた汁《つゆ》をすすりながら、さりげなく観察をはじめた。  お茶用の湯を使い、小椀を温める。汁汲みで数回湯椀をかきまぜると、丁寧《ていねい》にすくって小椀                                                                           �   ヽノ  l一によそう。人形のように可愛《′lり・一し》らしい横顔には、先はど秀鹿に見せた笑顔はない。ほんの僅かにひそめられた眉宇《ぴう》が、無表情というよりも必死で表情を押し殺しているように見える。  後宮仕込みの優雅《ゆうが》な挙措《きよそ》で、昔もなく影月の埋もれている書卓に向かう。  照れ隠《かく》しというには眉間《みlすん》の紋《しわ》が寄りすぎて、衷情も固い。 「……どうぞ」 「ありがとうございますー」  影月はにっこりと微笑んだが、手にしている書物を置いて小椀をとろうとはしなかった。 「あとでいただかせていただきますねー」  ……ふわりと、白い湯気が寂しげに揺れた。  香鈴は無言で踵《さげ・一》を返すと足早に室から出て行った。秀麗が引き留める間《J》もなかった。  秀麗ほ知らずに《▼》詰めていた息を吐《◆J》き出した。そして影月が、香鈴がいなくなった途端《とたん》、早速《さつそく》小椀と勺子《∫l人げ》に手を伸ばしているのを見て、思わず額を覆《おお》ってしまう。  おいしそうに肉団子を頼はる影月はにこにこしていて、本当に嬉しそうである。  秀麗は溜息をついて、勺子《−1んげ》を空になった小椀に沈《しず》めた。陶器の勺子《∫lんげ》がカチソと音を立てるのを聞きながら、影月に顔を向ける。……ここ最近、ずっと気になっていた。 「……ね、さっきの続きなんだけど」 「はい?」  秀麗は余計なことは言わず、単刀商人に訊《き》いた。 「このごろ影月くん、香鈴に冷たくしてるのほどうして?」  影月は|驚《おどろ》いたようだったが、すぐに浮かんだ落ち着いた笑顔《えがお》を見て、秀麗はあながち的外れでもなかったことを確信した。後ろめたい様子は微塵《みじん》もなかったけれど、自覚はある−。 「冷たかった、ですか? |普通《ふ つう》にしていたつもりなんですけど……」 「そうね。冷たいっていうのは言い過ぎね。|優《やさ》しいけど、一線を引いた感じ、かしら」  秀麗自身、香鈴の変化に気づかなければ見過ごしていただろう。  香鈴が影月に対して、照れ隠しに何かしら意地を張ってしまうのほいつものことだ。けれど根が素直《寸なお》なだけに、その裏にある彼女の優しい愛情がはっきり見てとれて、傍目《はため》にも|微笑《ほほえ》ましいものだった。影月も香鈴より精神的にずっと大人なので、差し出されたほんの少しへそ曲がりな愛情を、真綿で包むように受けとめていた。  そんな二人を見ているのが、秀麗は嬉しかった。  ほんの少し前まで笑うことにさえ罪を覚えていた香鈴が、今では後宮で過ごしたころ以上に豊かな表情を見せてくれるようになった。その多くを引き出してくれたのは影月だった。  このまま、少しずつつらい過去を想《おも》い出の箱にしまって、傷ついた心を癒《いや》して、ゆっくりでいいから未来《さき》を見てくれたらと思った。それはもう難しくないはずだった。−けれど。 「……最近、香鈴、変でしょう?」  影月は困ったような顔をして、是《ぜ》とも否とも言わず日をつぐんだ。 「影月くんが気づいてないわけないわよね。だって影月くんと接するときがいちばんおかしいんだもの」 「…………」  が人ば                                       じようちよ      ためいき 「頑張って普通にしようとしてるけど、           い.�‥すごく情緒不安定。溜息はよくつくし、眉間の紋もなくならないし、ぼーっとしたり、苛立ったり、かと思えば泣きそうな顔したり」香鈴自身、行き場のない感情をもてあましているかのようだった。特に影月に対してそれが顕著《りんちょ》で、ぴりぴりと火花のように気を張っているのがわかる。  見え隠れしていた影月への『特別Lが影をひそめたのは、いつからだったろう。  けれど注意深く様子を見てみれば、そんな香鈴に対しても『いつも通り』を崩《くず》さない影月のほうこそおかしいというべきだった。無言の気配りに長《た》ける影月は、それだけ観察眼が鋭《十1るど》く、心を察するに敏《げ人》である。香鈴の変化に気づいていないわけがないのに、決して踏みこまない。  見方を変えれば、香鈴が影月に対して感情を露《ム・り》わに干渉《わ∵んしょう》しょうとしているのに、影月がそれを許していないということだ。  多分、二人の変化は影月のほうが先で、それに気づいた香鈴が一人で堂々巡《め勺、》りをしはじめたのだ。逆ならば、影月がとっくに香鈴を心配し、思いやってなだめている。  表面的な優しさほ変わらない。けれどそれは、以前の影月とは明らかに違《ちが》っていた。少なくとも以前の影月なら、冷めないようにと丹念《た人ね人》に気を遣《つか》った香鈴を前に、さらりと 「あとで」な  どという言葉を言えるはずがなかった。 「……香鈴、あなたに何かした?」 「いいえ」  影月の|穏《おだ》やかな微笑みは、時々十三歳ということを忘れそうになる。 「理由を訊いてもいい?」  影月は困ったように首を傾《かし》げ−ややあってポッリと|呟《つぶや》いた。 「……忘れていたんです」  静かに掌《てのひ.り》に視線を落とすその横顔は、ひどく大人びていた。 「僕は、自分自身のことだけで精一杯だということを」  あんまりにも楽しくて、と|囁《ささや》き落とした影月は、幸せという色に墨を一滴《すみけとしずく》垂らしたような顔をしていた。優しい笑みのはずなのに、なぜか淡雪《あわゆき》のように惨《ほかな》く泣きそうに見えて。   −秀麗は、開けてはいけない羞寵《つ.つ・り》を知らぬうちに暴いてしまったような気がした。 「これ以上、ずるずると身の程を忘れて甘えて|溺《おぼ》れるわけにはいきません……。僕には−」影月は掌を|握《にぎ》りしめ、目を閉じて腹の底から息を吐き出した。 「他の誰《だれ》かに割《さ》けるほどの心の余裕《よゆう》などないのに……」  秀麗は口を開きかけ−無言のままつぐんだ。  何らかの想いや約束をかわしていたならともかく、何もないうちに影月が無言で退《ひ》いたからといって、責められるいわれほない。始まってもいないものが終わることはなく、影月の心の  有り様以外、すべては以前と変わりないのだ。けれど−。 「……香鈴があなたのためにつくったお饅頭、嬉《まんじゆううれ》しかったっ・」 「とても」 「たくさんの気遣《きづか》いと優しさも、見返りを期待してのことではないわ」 「わかってます」 「……香鈴、好きっ・」 「はい」  その是が何を意味するのか、優しい|微笑《ほほえ》みに隠されて秀麗にはわからなかった。  そしてこれ以上、秀麗が踏みこむわけにはいかなかった。 「……燕青にこってり絞《しぎ》られたことだし、今Hはこれで終わりにしましょう。おつゆ、まだ二、     一r■h三杯《−1ト..1》残ってるから、どうぞ。ちゃんと香鈴にお礼言ってね」 「もちろんですー」それは欠片《かり・り》の動揺《ごうよう》も見られない、いつもどおりの完蟄《か・んllへき》な笑顔だった。  影月の思慮《しりよ》深さを思えば、彼の言葉はとことん考え抜《ぬ》いた結果であり、それ相応の深い埋由があってのはずだった。笑顔の裏にある固い意志は第三者が翻せ《けるがえ》るほど脆《もろ》いものではなく、その心を動かすことも秀麗には不可能なのだと察するには充分だ《じゆうバん》った。 (……だいたい、私にどうこういえる資格なんてー)  やわらかな巻き毛の青年が|脳裏《のうり 》をよぎる。しやらりと鳴る智《かんぎし》の音が心をしめつける。  どこまでも沈みそうになる思考を、頭を一つ振《・ト》って追い払《はら》う。 「燕青のところに行って、朝質には私がでるって言ってくるわね。おやすみなさい」 「はい。あ、冷え込みそうですから、一枚毛布を余分にかけたほうがいいですよー」 「影月くんもね」  何事もなさそうにいそいそとおかわりをよそいに行く影月を尻目《しりめ》に、秀麿は室を出た。そしてギクリとする。  扉脇の壁《とぴ・りわきかペ》に、香鈴がうつむいて寄りかかっていた。         歯髄沸鴇瀞 「あー、やっぱ朝賀にゃ姫《けめ》さんが行くことになったか」  燕青は自室ではなく書庫に改造した州牧邸の一室で、疲《つか》れ果てた様子で巻書を片手に格闘《カくとう》していた。秀麗が顔を見せると即座《そくぎ》に息抜《いきね》きを決めたらしく、あっというまに巻書を閉じる。 「俺もそれがいーと思うぜ。心配すんなって。悠舜が助けてくれるからさ」  にっかと笑う燕青の顔を、秀魔はとっくり眺《なが》めた。 「……ビーした姫さん? あ、この|無精髭《ぶしょうひげ》は明日の朝には剃《そ》るから許して」 「違うわよ。少し不安なだけ。知らないうちに、ずいぶん燕青に頼《たよ》ってたのね、私」  豪放姦落《ごうはうらい�りく》で大雑把《おおぎつは》なように見えて、振り返ればいつも必要な手を打って、支えてくれた。ど  んなことでも笑い飛ばしてー思えば、燕青が深刻な顔をしたときを秀麗は知らない。どれほど不安材料があっても、燕青の破顔一笑を見たら何とかなる気がした。そして本当に何とかなってきたから、いつのまにか、燕青がいるだけで安心していた。  官吏《かんり》としての経験や能力、人柄《ひとがら》の問題ではない。治者としての天賦《てんふ》の資質なのだろうと思う。  今さらながら、茶州府が彼を州牧として認め、従った理由がよくわかる。 「嬉《うれ》しーこと言ってくれるなー。ふっふっふ、そんなに俺と離《はな》れるのが|寂《さび》しいかっ・」 「うん」  間髪容《かんはつい》れずに背《うなず》かれて、燕青は顎《あご》に当てていた手をガクッとすべらせた。  秀麗は吹きだし、ひらひらと手を振って踵《さげ丁》を返した。 「本音よ。でも今回は燕青なしで頑張ってくるわ。じゃ、おやすみなさい」 「待て待て待てい」  燕青は体を乗りだして、慌《あわ》てて博子越《たくしご》しに秀麗の腕《うで》をつかんだ。 「−�い、いま俺様がうまい茶を滴れてやるから、まあもう少しゅっくりしてけって」  秀麗はちょっと目を丸くしたが、おとなしく|椅子《いす》の一つに腰《こし》を下ろした。立ち替《か》わるように燕青が茶卓に向かう。どうやら本気でお茶を滴れてくれる気らしい。 「そういえば、静蘭は?帰ってきてたわよね?」 「ああ、隣《となり》の書庫にいると思うぜ」  秀席は茶器を置く場所を開けるべく、積みあげられた書物や巻書を適当にどけた。  燕青は蓋《・ごh》つきで底の深い|茶碗《ちゃわん》を二客と、たっぷり白湯の入った瓶《げん》をもってきた。茶碗には茶葉が直接入れてあり、燕青は急須《さゆ∴ノす》を使わずに直接茶碗に湯を注ぎはじめた。最初見たときはいくらなんでも大雑把すぎると|呆気《あっけ 》にとられたが、地方ではこうして飲むほうが多いという。  秀麗は|黙《だま》って燕青の仕草を見ていた。そも茶托《らやたく》がないところからして、いかにも適当で気を遣っていないように見える滴れ方なのに、一滴もこぼさないのが彼らしい。  ふんわりと温かい湯気と緑茶の|爽《さわ》やかな香気《こうさ》が立ちのぼり、茶葉が踊《おど》る。  湯を注ぎ終えると、燕青はそれぞれに蓋をした。  しばらく、優しい沈黙《し人もく》が落ちた。                                                、一Jこち  秀麗はくすりと笑った。−この静かで居《−ヽ》心地の良い空気には覚えがあった。去年の夏、夢と現実の狭間《はぎま》で揺《ゆ》れていた自分の室を、おにぎり片手にひょっこりやってきた燕青。 「燕青がお茶を滴れてくれるくらい、私、元気なさそうに見えた?」  思いがけず大人びた微笑《げしょう》に、燕青は少し|驚《おどろ》いた。ややあって手を伸《の》ばすと、くしゃくしゃと秀麗の頭をかきまぜる。 「いや、俺が勝手に心配しただけ」 「|嘘《うそ》。何でも燕青にはバレバレなんだから」  少し蓋をずらすと、くるくる舞《ま》っていた茶葉はすっかり沈殿《ちんでん》していた。葉を揺らさないようそっとHを付けながら、秀琵はまず外堀《そとぼり》から埋《う》めていこうと、ポッッと話題を投げた。 「……倒壊《とうかい》した例の離れ、完全に撤去終了《てつきよしゅうりょう》したみたいね」 「ああ。よかったよなー。全員退去したあとで。マジで最後の一人が避難《ハl・な人》した直後に崩れたもんな。なんか誰かが支えててくれたみたいだよな」茶本邸での|騒《さわ》ぎのおり、当主選定のために茶一族の重鎮が《じ呼フちん》集められた離れは、茶仲障の歪《伶が》んだ妄執《もうしゅう》のためにある〓疋以上の重量がかかると倒壊する仕掛《しわ》けになっていた。しかも瓦礫《がれき》を取り除いてみると床下《沌かした》から大量の火薬と油壺がぞくぞくと顔を見せ、倒壊直後のゴタゴタに紛《まぎ》れて火種を一つでも投じればすべては火中に散じる算段が組まれていた。まさに間一髪《か人いっぱっ》だったことを知り、面《つら》の皮の厚い茶一族の面々もこれには心底肝《き一じ》を冷やしたようだった。 「茶本邸の捜索《そうきく》もすべて完了、派遣《はけ人》していた州武官たちの撤収も終了して……亡《な》くなったかたたちのお葬式《一て∴ノしヽl》も終わって……」 「朔《ヽ、′1》だけが、結局最後まで見つからなかったな」ズバリ本題をついてきた燕青に、秀麗は苦笑《.ヽしよ∴ノ》した。 「そうね。本当に最後の最後まで振り回してくれたわねぇ」  燕青は軽い〓調にも惑《まご》わされなかった。秀麗の手の甲《こう》を慰《なぐさ》めるように叩《たた》く。それは言葉よりもあたたかく、じんわりと秀麗の心に染《し》み入った。  目を閉じれば、容易に思い浮《う》かぶ。一流の細工師が丹精《たんせい》こめてつくりあげたような|繊細《せんさい》な顔立ちと優艶《ゆうえん》な物腰《ものごし》。猫《わこ》のように目を細め、口角をちょっとつりあげるように微笑んで、低く|優《やさ》しい美声で、毎晩甘えるように二胡《こ一−》とお茶をせがんだ。  ……最後の最後までずるかった若様。 「……あの人、一度も私には冷酷《れいこく》な顔を見せなかったわ」  二胡を弾《ひ》いて、お茶を掩れて、髪を結んでほしい。  彼が秀麗に求めたのは、たったそれだけだった。 「何一つ、無理強《ドし》いしなかった。あの人がしてきた数々の『お遊び』は、私、最後まで『伝え聞いたhだけだった。お伽噺《とぎばなし》の中のお話とおんなじに」玩具《おもちや》のように人と命と人生を弄び《もてあそ》、飽《あ》きたら紙くずのように放り捨てる。�殺刃賊《さつじんぞく》″を操《あやつ》り、仲障の狂態《きょうたい》をただ眺め、祖母と母の求めた手を貸して、実父を狂気《きょうき》の淵《ふち》に導いた。彼の『退屈《たいくつ》しのぎ』で、どれほどの人の人生が狂《! ヽる》い、その命が露と消え果てたことだろう。  ……けれど、秀麗が知る彼は、……どこまでも秀麗に優しかったのだ。 「……私、嫌《\、・り》いになれなかったわ」  慨悔《ぎんげ》するようにポッリと|呟《つぶや》いた秀麗の小さな頭を、燕青は優しくかきなでた。 「……それでいいんだよ。姫さんはさ、朔が生まれて初めて嫌われないように頑張《がんば》った相手なんだ。嫌えるはずねーし、その必要もない」�殺刃賊″時代の静蘭と燕背の話をひと言もしゃべらなかったと知ったとき、燕青はそのことを心から思い知った。  恋《こい》した少女をただ大切に、優しくしたい——�たったそれだけを、朔洵《さくじゅん》は願った。  秀麗が大切にしているものを、結局あの男は何一つ轍《.つノ′ネ》わなかった。  官位も茶州も�花″も、気に食わなかったはずのー彼女が愛する誰《だれ》一人として。 「あいつ、姫さんを|騙《だま》してたわけじゃねーもん。だろ?」  完璧に研磨《けんま》された水晶《ナいしょう》のようだと 「茶朔洵』を見たとき、秀麗は思った。光の角度で色を変える水晶のように、ただ秀麗にだけは|綺麗《き れい》な色しか見せなかった。それだけのこと。それに、何一つ嘘はない。 「……でもね、私もずるかったの。最後までちゃんと言わなかった」 「なんて?」 「あなたとはお付き合いできませんって」  燕青は茶を吹きそうになった。咳《せ》き込む燕青を、秀麗はじろりと睨《に∴》みつけた。  −笑いごとじゃないんだけど」 「……いや、笑ってるわけじゃなくて、ヤツの性格とその言葉がそぐわなすぎてさ……」 「そうね。本人に言っても吹きだして軽く流されたでしょうね」  秀麗は茶碗に湯を注ぎ足しながら、前よりはゆっくり踊る茶葉を見つめた。 「……でも何度でも言えばよかった。本気で、何度でも白あの人の心に届くまで」  おままごとのようだった。いやー秀鰯が、心のどこかで逃《に》げていることを知っていたから、彼はそれに合わせてくれた。  名を呼んでしまえば、もう逃げ場はなかった。今から思えば、それは多分、おままごとの終わりを意味していたのだ。けれど秀麗は彼に対して迷いがあった。|間違《ま ちが》いなく心が揺れていたから、名を呼んだときに剥《−》がれた紗幕《しやよ! 、》の向こうの彼と、向き合うことが怖《こわ》かった。  答えを出すことを強要されない、ぬるま湯のような場所に浸《ひた》っていたのは秀麗自身。 「……答えなんて、決まってたのよ。私の気持ちも、あの人の気持ちも、関係ない。受け入れることなんてできるわけない。よくよく考えれば『ありがとう』とは言えても『でも性格と根《こん》性《‥じよ・り》叩き直してから出直してきてしってのが関の山よ」燕青はゴクリと生唾《なまつぱ》を飲みこんだ。 (すげぇ……)  |瀕死《ひんし 》の朔泡を前に、それでも一絆《いちる》の望みをかけて秀麗は影月の元に駆《か》けてきた。彼女は本当に、決してくだらない感傷に惑わされない。 「知ってるわ。もしかしたら私の人生で三にl1.を争うくらい、色々と突《つ》っ走ってくれた人だってこと。……心が揺れたのは、嬉《うれ》しかったからだわ。認めるわ。でもね、あの人じゃ|駄目《だめ》だった。少なくとも、あのときのままの若様の手を取れば、きっと私、もう先に進めなかった」  秀麗の声は、ひどく落ち着いて優しかった。 「私、欲張りなの。捨てられないの。今まで大切にしてきたもの、培《つちか》ってきたもの、心に溜《た》めてきたたくさんの想《おも》いをすべて引き換《か》えにして、あの人のために生きてあげることなんてできないわ。そんなに簡単に捨てられるくらいなら、最初から国試なんて受けてない」燕青は小さく口の端《はし》を緩《ゆる》めた。そのあったかい微笑に、秀麗も微笑む。 「ずっと官吏《かんり》になりたいと思っていたわ。でも今は 「官吏になってせっせとお仕事して、同が傾《かたむ》かないように頑張る」っていう、漠然《ばくぜん》とした考えじゃなくて。緯倣《こうゆう》様を見て、黄《こう》尚書や景《けい》侍  郎を見て、魯《ろ》尚書を見て、燕青と悠舜さんがしてきたことを間近で感じて——�」  そして、それをすべて、いちばん上から見守り、支えてくれるたった一人の王。 「一私の尊敬する人たちが認めてくれるような官吏になりたいの。いつか燕青たちの助けになれるような官吏になりたい。私、もっともっと上に行きたい�」  凛《りん》とした瞳に射抜《ひとみいぬ》かれて、燕青は息を呑《の》んだ。同時にガックリと目を覆《おお》う。 (……不意打ちは|卑怯《ひきょう》だぜ姫《ひめ》さん……)  こんなものすごい告白をされては、静蘭でも茶を吹きだすわけである。−やられた。 「? どうしたの?」 「……あー……や、これからまたお勉強漬《づ》けの毎日かぁってな……」  せっかく準試に及第《さゆうだい》したばかりだというのに……とつづく言葉を|溜息《ためいき》に変える。  |妙《みょう》な様子に秀麗は首を傾《かし》げたが、燕斉は何でもないと苦笑いして話を促《うなが》した。 「それを全部捨てて俺についてこいって言われて、まあステキなんて領《うなず》けると思う?」 「うっ……そ、そうか。そういうことだよな。うわー俺が女でもイヤだなー。朔についてくには不安がありまくるもんなぁ。稀《まれ》に見る生産性甲斐性《かいしょう》なしダメダメ男だしな……」 「そうよ。うっかり顔と雰囲気《ふ人いき》に流されかけたけど、つきつめればそういうことよ。どう考えたって答えなんて一つしかないわ。……でも、言えなかった。最後まで言えなかった」コク、と秀麗はお茶をすすった。揺れて浮いた茶葉が口に入り、バッと苦味が広がった。 「……何もかも終わる前にちゃんと面と向かって言えばよかった。本気で向き合って、理解するまで何度だって名指しでビシッと振《ふ》ってれば、何かが違ってたかもしれない。私好みの男になるべく、口々無駄《むだ》に垂れ流してたやる気を性格改善につぎこんだかもしれないし」それほどうかと燕青は思ったが、相手が秀麗なら不可能ではなかったかもしれない。 「……私もあの人も、知らずにいろんなことを間違えてたんだと思う。もう二度と間違えない。だから、たくさんたくさん考えるわ。|大丈夫《だいじょうぶ》よ、燕青。私、ちゃんと頑張れる」  一人で。そう聞こえた気がした。  茶朔渦に関して、あのあと秀麗は一度も個人的感情を口にしなかった。影月にも燕青にも、静蘭にもだ。誰《だオー》もが一件に関《カカ》わり、且《か》つ茶家を裁く立場ゆえに、案件に関する話題は裁判終了まで黙秘《もくひ》しなくてはならない。秀麗はそれを|貫《つらぬ》き通した。誰にも、ひと言も心を漏《も》らすことなく、何気ない顔ですべて一人で背負《しょ》い込んだ。  そうして、彼女は一人で大人になろうとしていた。  一人でも、正しい道を選べるように。 「……そう急ぎ足で大人になるなよ」 「なるわよ。子供のままじゃいられないってしみじみわかったもの。私も影月君も、もう子供でいることは許されないわ。そうでしょう? それにね」秀麓はひらひら気軽に手を振った。 「だいたい燕背、私を甘やかしすぎなのよ。だからこれくらいで丁度いいの。静蘭もよ?」  燕青はギクリとしたが、静蘭はあっさりと隣室《りんしっ》から姿を現した。  秀麗はやっぱり、と苦笑《くしよ∴ノ》した。 「ちゃんと聞いてたわねっ・だから、私は大丈夫よ。心配しないの」       じ17そつさま 「お嬢様……」  −なにっ・」 「もし茶朔泡が生きていたら、どうなさいますか」 「ありえないわ。わかってるでしょう?」  朔胸の遺体は、ついに発見されなかった。あのとき秀麗が影月を連れて駆け戻《もご》ったときには彼の姿はどこにもなかった。けれど影月をはじめとするすべての医師が生存の可能性は皆無《かいむ》と断定した。残された血痕《け 「こ人》から血を採取して調べたところ、検出された毒素はすでに致死《らし》量に達し、どんな解毒も手遅《げどくておノ、》れだと。何より、秀麗自身がよくわかっている。  どんな『遊び』にも手を抜かなかった若様。『もし』などありえない。でもー。 「……そうね、もし生きてたら、横っ面《つ・り》を思いっきりひっぱたいて、『今のところ家庭におさまる気皆無の私には、財力はあってもただ愛してくれるだけの砂糖菓子《がし》みたいな男なんていらないわ。もう二度と見てくれと雰囲気には騙されないから、出直してくる気があるならそれ相応の|覚悟《かくご 》で男を磨《みが》いてきなさいこのコソコソチキ』って今度こそ言ってやるわよ」日々彼女はたくましさを増すと、燕青はほとほと感心した。 「……あと、もう二度と、命を|粗末《そ まつ》にしないで…つてー」  秀麗は不自然に息を吸ったが、次の|瞬間《しゅんかん》には|笑顔《え C90がお》かべていた。 「これからは、そうと判断したら迷わずビシッと振ることにするわ。まあ香鈴や胡蝶妓《こちょうねえ》さんとかならともかく、私にはそうそうないでしょうけど。……でも傷は浅いうちがいいわよね」最後のひと言は、まるで相手がいるかのような呟きだった。 「さて、茶朔泡に関して、言うことは言ったわよっ・この話嶺はこれでおしまい。二人とも、もう余計な心配はしないのよ?」秀麗はサバサバ告げると、席を立った。 「じゃ、もう遅《おそ》いから、室で休むわね。お茶をありがとう、燕青」  あっさり出ていく秀麗を、燕青も静蘭も引き留め▼やしとはできなかった。  秀麗が|扉《とびら》の向こうに消えると、燕青は卓子《たくし》に突っ伏した。 「……やっぱ俺でもダメだったぜ静蘭……つか俺らのほうが気遣《きづか》われてんじゃんよ!…‥」 「情けないな」 「お前もな」 「ああ」  静蘭は手にした書物を置きながら、卓子を挟《はさ》んで燕青の斜《なな》め前に陣取《じんご》る。 「……私もお前も、今回の一件に深く関わりすぎたからな」  感情の赴《おもむ》くままに何もかもをぶちまけるには、静蘭も燕背も茶朔掬とあまりにしがらみを持ちすぎた。それを知った上で自分の感情を優先するような秀麗ではない。  秀麗が今回話したのは、静蘭と燕青が心配しているのを知っているからだ。自分の心を軽くするためではなく、二人のために彼女は話をした。話し方が|妙《みょう》に軽かったのもそのせいだ。茶朔泡の死を乗り越《こ》えたからではなく、心配させまいとの彼女の|配慮《はいりょ》に他《ほか》ならない。 「……目の前で、自分のために人が一人死んだんだ。|優《やさ》しい姫さんが参ってねぇはずねーよ。そう簡単に元気になれるか。くそ、朔ちゃんめ、最後の最後までふざけたことしやがって」 「ああ、口こじ開けて薬放りこんでとっとと廃人《はいじ人》にしてればよかった」 「……なあ、そういやお前、なんだって全部の杯が《さかでき》毒入りってわかったんだフ」 「私があいつなら|間違《ま ちが》いなくそうするからだ」 「……さいですか。よっく覚えとくぜ……」  燕青はまだごろごろ卓子に顔をつけながら、|珍《めずら》しく大きな|溜息《ためいき》をついた。  結局最後まで、涙ど《なみだ》ころか感情的になることさえなかった。そのうえで 「おしまい」と境界線を引かれてしまったのだから、もう本当に静蘭と燕背には何もできない。 「ああなると完全な第三者か、旦那《だんな》様でないと無理だな……」 「事情知ってる完全な第三者で姫さんが愚痴《くち》言えるやつなんているかい。あー姫さんがどんどん大人の階段のぼっちまうよー。|寂《さび》しいよぅ」 「私に向かってその台詞《せりふ》を吐《は》くとほ良い度胸だな燕青。シャキシャキ働け」渡《わた》すというより投げつけられた書物を、燕青は寝《ね》っ転がったまま軽々と右手で受けとめた。  いやいやながら起きあがり、またいくつもの巻書をひもとき始める。 「あ、てことで朝質には姫さんが行くことになったから、悠舜らの護衛よろしく」 「……ああ」 「なんだよ、自分だけ何もすることねーから拗《すl》ねてんのか?  Lょーがないだろ、お前武官なんだしさー。それ以外で役に立つわけないだろが。いーか、妙な過保護心だして姫さんの邪《ヽ》魔《ヽ》すんじゃねーぞ。閑《ひま》なら酒でもカッ食らってゴロゴロ寝てろ」一瞬垣間見《かいまみ》せた厳しい眼差《まなぎ》しは、秀麗の副官としての無言の釘差《くざさ》し。公私混同するなとの無言の圧力に、静蘭はふいと視線を逸《ぶ、》らした。 「ま、幸い姫さんのほうがしっかりしてるから大丈夫だろーけどな。お、あったあった。これか、若才が虎林郡から送ってきた書簡に書いてあったやつ」それ以上静蘭に構わず、つらつらと文字を追っていく。次第《しだい》に燕背は笑い半分、|呆《あき》れ半分の妙に引きつった顔になってきた。 「……若才がお前の虎林郡視察行きを中止してしばらく様子見ろとか言うからなんばのもんかと思ったけど……すんげー胡散《うさん》くせー……」燕青は書物のなかのその三文字に視線を落とした。 「�邪仙教″《じやせんきょう》ねぇ……」         線穣遜噛嘘  自室に戻った秀麗は、ようやく《−》詰めていた息を吐き出した。|膝《ひざ》が小刻みに震《ふる》えているのを自覚しながら、足を引きずるように林立する本の山を抜ける。  ひどく精神が|消耗《しょうもう》していた。今夜はぐっすり−何も考えずに|眠《ねむ》りたかった。  しかし運悪く山積みの本の 「つに袖《そで》を引っかけ、盛大な雪崩《なだお》を引き起こしてしまった。……あ′さーノもう最悪……」  無視して|寝台《しんだい》に|倒《たお》れ込みたい気持ちは多々あれど、|崩《くず》れて無惨《むlぎ人》な有様となった書物を見捨てることはできなかった。これも血の為《だ》せる業《わぎ》か、結局トホホとうずくまって片づけ始める。  巷書を拾おうとうつむいた拍子《!?よ∴ノし》に、知らず涙がはたりと落ちた。 「  ——・ご秀麗はぎょっとして目許《.、! 1もと》をおさえた。慌《あわ》てて顔を上げる。うつむいただけで、気持ちまで傾《かたむ》いてしまったらしい。自分で把捉《はあノ1》していた以上に感情が不安定になっている。心が震える。奔流《は人りゆ∴」》のように感情が渦巻《∴ノずよ》きはじめるのがわかる。  一人になって気がゆるんだとはいえ、これはマズすぎる。こらえきれなければ、いつものように声を殺せず、思いきり泣いてしまいそうな予感満載《圭んさい》だ。 (ぎゃう、ダメダメダメー!)  二人にもう大丈夫なんて偉《1り一r.ト》そうなことを言った矢先に−。  しかし必死にこらえようとすればするほど、ますます不自然な呼吸になる。飲みこんだ空気が喉《のご》の奥で小さな音を立てた。自くなるほど|握《にぎ》りしめた|拳《こぶし》のなかで、爪《っめ》が強くくいこむ。  もうダメだと思った瞬間、突如《とつじょ》室の外で|奇妙《きみょう》な怪音が鳴った。 「…………………………」  へろへろと体の力が抜《ぬ》けた。  このまま床《ゆか》に突《つ》っ伏《ぷ》して気絶して、聞かなかったことにしようかと本気で思った。  しかしそれではあの近所迷惑《めいわく》な怪音は延々朝までつづく慣《おそ》れがある。 (あの音が役に立つことがあるとは思わなかったわ……)  涙が溢《あふ》れてくる気配はもうない。限界まで張りつめていた|緊張感《きんちょうかん》も、弾《はじ》けることなく消え失《う》せていた。おそるべき怪笛である。  さっきまでとほ理由の違う|衝撃《しょうげき》のため、|若干《じゃっかん》よろよろしつつ秀麗は窓を開けてあげた。 「人の家を訪ねるときは『ごめんくださいhっていうのよ、龍蓮」  ピタッと笛の音がやんだかと思うと、濃《こ》い闇《やみ》が落ちていた木陰《こかげ》から、いつどこでもどんなときでも場違《ばちが》いな恰好《かっこう》をした男が現れる。 「万物万事になにがしかの風流を添《�て》えれば、人生はより豊かになるものだ」  実にもっともな言葉だが、そもそも『風流』の基準が余人とかけ離《はな》れているために彼と他人の相互《そうご》理解は非常に難しい。  まるで何事もないかのようにいつも通り現れた龍蓮に、秀麗はポッとした。 「もう真夜中過ぎよ。今度からはせめて夕暮れまでにくること。いい?」 「ふむ、では夕餉《ゆうげ》にはキノコ雑炊《そうすい》を所望《しよもう》する」 「じゃ、頑張《がんげ》ってキノコとりに行ってきてちょうだい。……何してるの〜寒いんだから、早くあがりなさいよ。いっとくけどまだ火鉢《けばら》は出してあげないわよ。毛布で|我慢《が まん》するのよし|窓枠《まどわく》が音を立て、ひらりと龍蓮が入ってくる気配がした。 「はいこれ毛布−……つてあんた、何その頭!?」  室内は薄暗《∴ノ�小ヽ・り》いが、さすがにわかった。なんと龍蓮がいつも頭にさしていた羽根の代わりに、なぜか松ぼっくりやドングリ、毯栗《いが�、り》、しかも件《・、だ人》のキノコまでゴテッとのっている。  1ますます奇抜《\1ぱつ》度に磨《みが》きがかかっている。……いったい彼に何があったのか。 「……ね、ねぇ、あ、あの羽根はどうしたのよ」  あのド派手な羽根と現在の秋まっさかりの頭ではどちらがマシかほ|微妙《びみょう》なところだが。 「旅の|途中《とちゅう》、我が羽根を切望する二人の少年と再会したゆえ、物々交換したのだ」  秀麗はゴクリと唾《lリぱ》を飲みこんだ。今はもうお山に帰った元気いっぱいな二人組が|脳裏《のうり 》に浮《う》かんだ。ま、まさか……?  「情《お》しげなく人を喜ばす修行のため、無償《むしょう》提供のつもりだったのが、礼だといって|譲《ゆず》らなくてな。ふ…感心な子らだ。せっかくゆえ、秋の風流を私なりに最大限に体現してみた」開いた日がふさがらないとはこのことだった。ツッコ、、、どころがありすぎてどこからツッコ  んだらいいのかもわからない。なぜ紅葉や秋花でなく、あえて松ぼっくりとキノコに挑戦《,1.dl一.★�、一′》するのかこの男は。秋の風流というか秋の味覚を体現している。 「このキノコなどはなかなか珍しいらしい」  何やら頭をさぐり、刺《さ》さっている扁平《へんへい》で縁灰色の不気味なキノコを抜きとる。しかしそれを見た瞬間、《しゅんかん》秀麗はくわっと目を見ひらいた。 「−こ! これってもしかして深山絶壁《ぜつlへき》にしか生えないっていう石芝《いわたけ》!?採取の因難さから高額取引されて……しかもこの裏の白いザラザラの毛……ま、まさか超珍味《ちょうちんみ》中の珍味白毛石《はくもういわ》芝《たけ》! 確かたった一株で金《きん》いくらとか−ほっ、あんた頭の右に生えてるキノコはもしかして秋の王様・松ノ茸《たけ》!?しかも傘《かき》がひらききってない優良茸じゃないの!」 「では石芝《いわたけ》はおろし和《あ》え、松ノ茸は土瓶蒸《ごげんむ》しを所望する。栗《くり》は甘く煮《に》たのが良い」 「いやー! そんな簡単に言わないでッ。あんたの頭いまいくらだと思ってんの!?」|絶叫《ぜっきょう》すると、秀鹿は急に気が抜けてしまった。次いでなんだかやたらおかしくなって、笑いがこみあげてきた。! やることなすこと、いかにも龍蓮だった。 「しばらくはそのままでいたら? 秋めかしいし、よく見ればなんだか|妙《みょう》に似合ってるし。旬《しゅん》が過ぎる前にちゃんとおろし和えと土瓶蒸しにしてあげるから」思いきり笑うと、ストンと心が軽くなった。  秀麗は改めて手にした毛布を龍蓮に差しだした。 「……この前は無理やり追い出しちやって、悪かったわ。きついことを言ってごめんなさい。  改めていらっしゃい、龍蓮」  龍蓮は毛布を受けとり−何を思ったか秀麗の手をもつかんだ。そして何かを確かめるように秀麗の手を何度か握る。  最初は真綿を撫《な》でるようにそおっと−次いで一気にかかってきた|圧迫《あっぱく》に、秀麗はぎゃっと悲鳴を上げた。 「何!?ツボ押しには痛すぎるわよ!!」  バッと手が解放された。次の瞬間、秀席は龍蓮に抱《だ》きしめられていた。手を握られたときの両|極端《きょくたん》な強弱の、ちょうど中間の加減で。                                 ——’L 「人の心までほ誰《◆ノ\ ‘》も測れない。心のままの行動も予測は難しい。運は自らの行いで引き寄せられるものなのだ白と、君に言ったはずだな」わけがわからず押しやろうとしていた秀麗は、ピタリと動きを止めた。  それは、『琳千夜《りんせんや》F1.の仮面を外した『茶朔洵』に初めて会いに行く前、龍蓮が告げた言葉。  とん、とあやすように背中が叩《たた》かれた。 「君は、君自身の行動により、このうえない幸運を引き寄せた。茶春姫は�茶州の禿鷹《りげたか》″でなければ守り通せなかった。去年の夏に君が浪燕青を拾い、曜春《ようし沌ん》を助けたからこそできた緑だ。そして茶克洵が君たちと出会い、茶春姫が生きていたからこそ、彼は当主の座についた。春に君が紅玖娘《こう.\ろう》の目にかなわねば紅家の名は使えなかった。柴彰《きいしょう》に認められなくてほ全商連の協力も得られなかった。君が浪燕青に準講を受けさせたから、今こうして州府は安定し、邸悠舜や  州官の信頼《し人・りい》も厚く受け入れられることができた」  言葉に引き出されるように、鮮《あぎ》やかに今までのことが脳裏に閃《け・りめ》いた。  秀麗は口を引き結んだ。……せっかく、笑えていたのに。 「そして茶朔洵の凶行が《きよでつこう》途中でやんだからこそ、|被害《ひ がい》は最小限に止《とご》まった。君だけが、それをなしえた。君にしかできなかったことだ」だから良いのだとは、龍蓮は言わなかった。慰《なぐさ》める口調でもなく、淡々《たんたん》と事実を述べる彼に、秀麗の心はついに折れてしまった。……ずるすぎる。よりによって今日、この時を狙《ねら》ったようにまともなことを言うなんて。 「……だから何? 私…、あの人を殺したのよ……」  龍蓮の声は、まるで何もかもわかっているように落ち着いていた。 「ああ、死を選んだのは彼自身の自己満足だが、選ばせたのは君だな。ただそこに在るだけだった惰性《だせい》人間が、生死の選択《せんた! 、》をするまでに人生に興味をもったわけだ。君にしか、茶朔泡を救うことも殺すこともできなかった。だから、茶朔陶のために泣いてやれるのはこの世で君だけだ。葬儀《そうざ》も終わり、裁きも大半が終わった。あと君がすべきことは、泣くことだけだ」頭ではいくらだって整理がついていた。けれど心だけはうまくいかなかった。  母のときとは違《ちが》う。誰が何と言おうと、茶朔洵を殺したのは間違いなく秀麗だった。甘露《かんろ》茶を掩れてあげていたらという話ではない。自分の|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な心が彼を殺したのだ。彼は最後の決断に秀麗を利用しておきながら、死以外の結末を用意しなかった。死ぬなら秀麗《わたし》の手で、と  いう考え方をさせるような言動しか、秀麗はとっていなかったのだ。  やるだけのことはやった。最善と思う行動を考えて駆《か》けずり回った。けれどたった一つ、あえて目を背《そむ》けていたものがある。それだけには最後まで向き合うのを避《ヽ−》けた自分を知っていたから、秀麗は誰が何と言おうと|後悔《こうかい》するし、その結果に対する誰のどんな慰めも、受け入れることはできなかった。一生忘れることなく、これから何度でも思い返し、泣くだろう。  それでも、一人きりで泣くのはさすがにもう限界だった。  一……泣いていいなら、泣くわよ。着てるもの台無しにする|覚悟《かくご 》はあるんでしょうね。ないならこの衣の総額を言ってちょうだい。聞いたら絶対涙《h�みだ》も引っ込むから」 「なんなら烏骨鶏《うこ 「けい》もしんみり聞き入る世紀の大悲劇曲をひとつー 「! 品由がなくても泣かせていただきます」即行《そl? しう》で答えると、頭を軽く押され肩《かた》に押しっけられた。たったそれだけで、秀麗の涙腺《ろいせ人》はもろくゆるんだ。秀麗は声をおさえて、ポロポロと涙をこぼした。  龍蓮は最初、何をしていいか戸替《と圭ど》りようにただ抱きしめるだけだったが、やがておそるおそる頭や背をなではじめた。彼は何も言わず、秀麗は長い間、すすり泣いた。  そしてどれくらいたったか−しばらくして、コテンと松ぼっくりが秀麗の鼻先に落ちてきた。涙も打ち止めに近づいてきたこともあり、秀麗はふと笑いを漏《一り》らした。 「……ありがとう。もう平気よ」  龍蓮の手がほどかれる。秀麗はその頭に、落ちた松ぼっくりをのせなおしてやった。  泣きすぎて、日が腫《4ょ》れぼったかった。それでも、秀麗は久しぶりに、本当にすっきりした。 「‥‥・もしかして、元気づけるためにきてくれたの?」 「君はいつも元気だと克泡から聞いたが、心の友は|騙《だま》されないものだ」  秀麗は思わぬ名に目を点にした。 「え? 克洵さんに会ったの?」 「現在の|滞在《たいざい》先ゆえ、毎日顔を合わせている」 「は!?な、ななななんでそんなことになってるの!?」 「州牧となっても怯《つl」》ましきを忘れぬ心の友らのもとへあまり入り浸《げた》り、家計をさらに逼迫《けつはく》させるなど心の友としてあるまじき|行為《こうい 》。ゆえにー」 「克洵さんのとこに押しかけたってわけ? でも何回か顔を合わせただけでしょう」龍蓮(↑秀麗が連れてきた)と克洵(↑影月が連れてきた)は確かに金華で顔を冶わせたが、どちらもすぐに金華を出てしまった。そもそもあのときの克泡は一族の問題で頭を抱《石∵力》え、龍蓮はふらふら怪音《かいお人》を響《ひげ》かせるだけで、会話どころか接点もろくになかったはずだ。 「いや、街を歩いていたら呼び止められて目疋非《ぜけ》にと滞在を乞《二》われてな」 「ええ? そりゃちょっとしか会ってなくても、恰好《かつ二う》見ればすぐに誰だか思いだせるでしょうけど……よくその恰好のあなた呼び止めたわね克洵さん……」 「なんでも衣裳《いしょう》を見立ててほしいと言われてな」その瞬間、秀麗の思考は真っ白になった。 「…………………………………………は?」 「『|唐突《とうとつ》で本当に申し訳ない。新年に|偉《えら》い人々に|挨拶《あいさつ》に行くことになったが、何を着ていけばいいかわからない、髪型《かみがた》もどうすればいいのか、貿陽の流行を知らなくて|馬鹿《ばか》にされるかもしれない、そもどんな態度でどんな言葉遣《づか》いで何をしゃべったらいいかわからぬ、へマをしないためにはどうしたらいいのか、出された茶菓子《らやがし》と水は飲んでも良いのかなどなどもう何もかもサッバリで大混乱、よかったらぜひしばらく留まって色々教えて欲《圭》しい』というようなことを何度も頭を下げて頼《たの》まれたのだ」秀麗は|卒倒《そっとう》しそうになった。 (こ、克洵さんー!)  どうやら賞陽での 「新年の新当主ご挨拶」が相当重圧になっているらしい。 (そ、それにしたってなんで龍蓮!?確かに同じ七家の−しかも筆頭名門藍家直系の御曹司《おんぞうし》だけど! 藍将軍ならともかく、どどどどう考えたって人選間違ってるわよ−つつ!)あまりの|緊張《きんちょう》と不安と混乱で、まっとうな判断力もどこかへ吹《.、》っ飛んだとしか思えない。 「同じ歳《レーし》のよしみでどうかお願いしますと頼まれれば、断れなかった」 「おな、同じ歳!」  秀麗は初めてその事実に気づいた。影月と翔琳が《しようり人》同じ歳という事実を遥《はる》かに超《こ》える|衝撃《しょうげき》だった。そうだ、確かに克泡は千八、龍蓮も十八、しかも現在ともに彩《さい》七家直系。 (いや   ー   つつつ!!)  ありえない。何かが間違っている。字面だけ追えばたいして違わぬ土壌《レl一L上ごう》で生まれ、まったく同じ年数を過ごしてきて、なぜに十八年後の結果がこれほどトンチソカソに違うのだ。共通点といったら『人類』くらいしかない。  秀麗は生まれてからこれほど生命と運命の神秘を感じたことはなかった。 「そういう頼み方をされたのは初めてだった。同じ蔵のよしみとはなかなか良い言葉だ」                                    .、ノ1し  龍蓮は妙に離《・・1Jく》しそうだった。 「同い年のかの者は我が笛の音に新妻と一緒《い 「Lトゝ》に拍手《1‥h�》を送ってくれたゆえ、親しき友其の一《ヽヽヽヽヽヽヽ》の称《−こ・リ》号《ごう》を授けても良いかと思案中だ。結婚祝儀《〓 「一丁仕し沌うヾ−》がわりに新曲を書き下ろそうと申し出たら、夫婦そろって非常に喜んでくれた。風流を解する心があるとは素陣《イr》らしい」  −茶克胸は大物になる。秀鰯はこの時確信した。ちょっと気が弱い|普通《ふ つう》のいい人と思っていたのは大きな間違いだった。実は夫婦ともに計り知れないほど非凡《‥イ‥∴》な人だったのだ。  T……そもそも龍蓮の恰好を見て.−。衣裳』とか最友型』の相談をしようと思うところからして常人とは異なってるわ……)心配極《、.わ》まりないが、克胸には生粋《\つ・一.�》の貴婦人・繰英姫《ハこ∴・・∴1�\▼》がついているので、最終的にはそうへン                                                                                                  tノ         ヽjなことにはならないはずだ。それに突き抜《′lJl》け部分(恰好・言動)に日が行きがちだが、実は龍蓮の挙措《さよそ》はまさに指先まで神経の行き届いた生まれながらの貴族そのものの典雅《てんが》さだ。一緒に食事をすれば、お手本のような|完璧《かんぺき》な作法と優雅《沌うが》な物腰《ちのごし》を見ることができる。 (克軸さんにとってもいいお勉強になるかも……)  少しは龍蓮の図太さをわけてもらえたら儲《一,プつ》けものである。 「よって私はこれで失礼する。真夜中に長々と淑女の臥室《しゅくじlよしんし 「》にいては評判に差し障《さわ》りがでよう」 「それはそれはお気遣《さrlづか》いありがとう」真夜中に淑女の臥室を訪ねる時点で気づいて欲しいものである。  それにしても本当に彼は、秀麗の様子を見るためだけにきてくれたのだ。やることなすこと突拍子《とつけようし》もないが、……だからこそ秀麗も影月も、あのとき彼を追い返すことに決めた。  向けてくれる惑《主γ4》いのない愛情を、どんな理由であれ一度でも利用したら、芯の友けll、という言葉から、顔を背けるしかなくなってしまう。 (……なんだかんだいって私も影月くんも……なのよねぇ) 「克泡さんと春姫さんも連れて、ご飯食べにきなさいな。しばらくしたら私も克洵さんも一緒に貫陽に行っちゃうから、その前にね」 「承知したL龍蓮はふと視線を下におろし、秀麗が入室するときに引っかけて崩《・、ず》した重い書物をあっというまに直すと、器用に間を縫《山》って窓へ向かった。 「……ありがと」  平積みでなくなぜか縦に並べてくれても、秀麗はきちんと礼を言った。 「……そういえば、あなたなんで私や燕青のこと、あんなによく知ってたわけ」  龍蓮と出会う前のことまで、あまりにも事細かに知っている。いくら龍蓮が一を聞いて千を  知る−わずかな情報から千里眼のように物事を瞬時《しl細んじ》に体系立てることができる天才だとしても、出会う前の、秀麗が言ったこともないことまで知っているのは妙《ノートー∴ノ》だった。  龍蓮はちょっと振り返ると、小さく笑った。 「『藍龍蓮』とはそういうものなのだ」 「はぁ?」 「貴陽は気味が悪いが、仕方ない。とりあえず今回の要注意は『寄ってくる男』だ」 「…………。…………。…………。」  まるで意味不明である。 「特に銀髪《ざ人H 「》のあやしい男には気をつけろ。貫陽にいるぶんには|大丈夫《だいじょうぶ》かと思うが」 「ちょ�」  龍蓮はひと言の説明もなしに、あっさりと窓から消えてしまった。  やはり龍蓮はどこまでも龍蓮だった。  ーやがて季節は本格的に冬将軍の|訪《おとず》れを迎《むか》える。木々の梢《=ずえ》から最後の一葉が舞《ま》い散ると、むきだしの白い幹や枝にふさわしい、凍《こご》えるような風が頬《ほお》を打つようになっていた。  秀麗は寒さでちょっと赤くなった鼻の頭をなでつつ、黄陽に出立する日を迎えた。  琥に残ると告げた香鈴と、……影月を心にかけながら、燕青や州営たちに見送られて秀麗は朝質へ向けて寛陽へ出産した。   劉馴削湘�胤湘湘湘恩�‖日田 「主上! もうどの娘《むすめ》でも構いませんゆえ、いい加減一人でも後宮にお迎えくだされー!」  いつもはヨボヨボ腰《こし》を曲げて歩いている老重臣たちが、裾《すそ》をからげシャッキリ背を伸《の》ばして、集団で回廊《かいろう》を蹴立《けた》てて飛ぶように逃《に》げる王を追いかける。  しかし追いすがる重臣たちの|絶叫《ぜっきょう》もむなしく、王はガッと欄干《・lリんかん》を飛び越《こ》えると、全力疾走《しつそう》で庭院をぶっちぎって今日もまたいずこかへ姿を消してしまったのだった。  逃げきられた重臣たちは、肩《かた》で息をしながら、がくりと|膝《ひざ》をついた。 「……ま、また今日もダメじゃったぁあ」 「もう主上も新年をお迎えになれば二十一におなりというに……」  腰の冷える回廊に皆《みな》でヨボヨボと座り込み、さめざめと顔を覆《おお》うも|僅《わず》かの間であった。彼らの立ち直りは早かった。 「いやいやわしらがこんなことではいけませぬぞ」 「さよう。主上もようやく政務に日々|真面目《まじめ》に取り組み、朝廷《ちょうてい》は落ち着き、国も平穏《へいおん》の萌《きぎ》しを見せておる。懸念《lすねん》はあと一つ。各々《おのおの》がた、末期《まつご》の水を飲む前になんとしてもお世継《よつ》ぎを!」 「お……おおっ?げげふんっ……ぐおおぉ……」  頭に血が上ったのか、関《とさ》の声をあげるまえに咳《せ》き込んで|倒《たお》れる老臣が続出し、その場は大混乱に陥《おらい》った。         −・・二 「   ∴・ 「おや、主上。今日は少しお早いお越しですね」  府庫で書物の整理をしていた邵可《−し上∴ノ否》は、よろよろと入ってきた士に苦笑《′1し上.つ》した。あちこちに葉っぱやら泥《どろ》やら小枝をくっつけているが、いつものように何も訊《さ》かずに|椅子《いす》をひく。  王はその椅子に落ち着くと、こてんと顔を横向けて卓子《たJ、し》に突っ件した。  そのまま、少しカビ臭《くさ》い、古い書物の|匂《にお》いをゆっくりと吸いこむ。  邵可はお茶を掩れながら、そんな上の様子を静かに見ていた。  多忙《たばう》からか、少しやつれ、逆にその眉目秀麗な美貌《げもくし時うれいげぼう》はいっそう冴《さ》えを増した。  新年を迎える準備に追われて、李経仮《hリこう時う》と藍楸瑛《ら人しゅうえい》は紅藍両家の貫陽邸《てい》切り盛りに忙《しそカ》しく、|近頃《ちかごろ》はあまり出仕をする姿を見ない。  一人きりでも、王はいつも通りに仕事をこなし、いつも通り邵可のもとを訪れる。                                                                                                                   .ノート.  彼が、たった一つだけ自らに許したお茶一杯《.,.....−——》分の休息は、いつだってひどく静かに過ぎて。  そんなとき邵可は、決しておしゃべりとはいえなかった少し前までの彼を思いだすのだ。   卓子に願をつき、眼差《まなぎ》しを邵可の手許《てもし」》に置いて、王はポッリと|呟《つぶや》いた。 「祁可」 「はい」 「秀麗が、帰ってくるのだ」   コポコポと湯呑《ゆの》みにつがれる|優《やさ》しい音が、|途切《とぎ》れることはなかった。   返事を求めていないことを知っていたから、邵可は何も言わなかった。   王の長い睫毛《まつげ》がゆっくりと降《お》り、白い頬に落ちる影《かげ》が濃《こ》さを増す。   瞑目《めいし′l、》し、彼は空気に溶《と》け込みそうな小さな声で、何ごとかひとりごちた。   邵可はやはり|黙《だま》ったまま、注ぎ終わったお茶を差しだした。  冬の初めの、切るような風が吹きこむ。   土はゆっくりと身を起こすと、邵可が掩れてくれたお茶に日を付ける。 「年以上そうしていたように今日もまた、何気ない顔で飲み干すとためらいなく椅子から立ちあがる。 「元気になった。仕事に戻《もけし》る。−邵可」 「はい」 「心配するな。私は大丈夫だから」   王の言葉と|微笑《ほほえ》みに、邵可が足《ぜ》と背《うなず》くことはなかった。   けれど身をひるがえして迷わず出ていく彼を引き留めることもできなかった。   邵可にできることは、たった一杯分の休息の刻《し∴一も.、》を、彼のために用意してあげることだけだっ  た。淡雪《あわ沌さ》のようにひとりごちた噴《ささや》きに、返してあげられる言葉もなく。  彼は誰《だ′l》にも告げることのない心を、ただ府庫《ここ》でだけ、無言でこぼしていく。  目一日と、彼は経仮や楸瑛の望む王に近づく。それと引き換《・乃》えに、王でない彼の居場所は月のように欠けー今や幼い日と同じ、府《こ》庫の、それもお茶一杯分の刻《レLヽら》しか残っていなかった。  それでも彼は、苦と違《らが》って自ら府庫を出ていく。  それが誰もが望み、また自らに課せられた道であることを、彼は知ってしまったのだ。  ! 悲しいほどに。  《一》                紅ヰ  hい  血漸−Y−  《1》《、》 「茶州全体の底上げをするにはどうしたらいいかって、二人で考えていたのh招集した高位の州官たちを前に、あのとき秀麗と影月はそう言った。『州政に関しては、燕膏と悠舜さんが 「年かけて素地をつくってくださったし、不備があるなら毎日喧々揖々《HÅ〓人ごうご.ノ》の論議で《一》突き上げられてくるでしょう?何より�−情けないけど、まだ白紙を埋《う》めている段階の私たちが|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に州府や法に日を出しても無意味だと思って』叫.だから細かいことより、大雑把《おおぎつは》にでもこれから《ヽヽヽヽ》何ができるかを考えてみようと思ったんです                                 tノー。引き継《′l》ぐだけでなく、その次の段階に入るのが僕たちのお役日ですから。なので、とりあえず茶州に何が足りないかなーというところから始めようと』   それが、はじまりだった。 「……何にやにやしてるんです。手が止まってますよ浪州努」  柴彰の某《あき》れたような声に、壊埴城で仕事をしていた燕青は我に返った。 「や。なんかさ、ほんとイイ上司もったなうてさ」  柴彰は眼鏡《めがね》を押し上げて、視線だけで燕青を見た。  茶州全商連支部長であり、柴彰の双子《ふたご》の姉でもある柴嬢は秀麗に同行して貴陽へ出立した。  そのため副支部長として臨時に茶州全商連を束ねるべく、柴彰が金華郡から戻ってきたのだ。 「ちょっと見くびってた。サラッと 「次の段階」とか言ってくれんだもんなぁ」   −考えること、判断すること。何もかも決めてやらなきゃ動けない上司なんて、最初《はな》からいなくたって同じだと、以前燕青は静蘭に言った。 『二人で調べてて思ったんだけど、茶州って本当にほとんど特産物がないでしょう?』  今なら、迷わずその言葉を塵寵《くずかご》に丸めて捨てられる。 「彰、お前言ってたじゃん。 「|完璧《かんぺき》じゃなくても、それを目指して最善の策をさぐる州牧であってほしい。その努力をする州牧であってほしい�ってさ。どんぴしゃだぜ。だから州官《あいつら》もあんなに喜んでんだよな。中央に戻るための踏《.い》み台じゃねぇ。それがわかるからさ」与《あた》えられた地位と責任の重さを、州牧としての責務と誇《はこ》りを、彼らは誰に言われずとも、とっくに掌に握《てのひ・り号ざ》りしめ、その身に課している。 『墟噂でさえ、王都ほ勿論《もちろん》、僕が受験|途中《とちゅう》通ってきた黒州州都遠港《えんゆう》と比べても、生活水準がだ  いぶ低いのが気になったんですー。モノの質も量も非常に悪いというか、他州に比べてずいぶんと立ち後れている気がします。聞けば、物流は今までほとんど茶家独占状態で、全商連が割りこむ|隙《すき》ができたのもここ数年で、まだまだ茶家の縁故《えんこ》関係が強いといいますしー』『それに他州に持ち出しても高額で取引できる商晶も提供できる技術もなくて、割りこむ旨《、つ1.′l》味もないのよね? だから外からの商人の流入が格段に少ない。他州とろくな取引ができないから物品の質も一向にあがらない。地理的に|妙《みょう》に外れにあるから交易の要所にもならないし。その上ほとんど資源がないからこんなに長い間中央もほっとくことができたのわし山と積んだ巻書や書物をひっくり返す二人を、州営たちはじっと見ていた。  突拍子《とつひょうし》もない意見でもいい。無経験の二人が提案する意見に土が《で? ,lゝ一、》見つかることなど百に一つあるかどうかだ。けれど、百出せば一つあるかもしれない。そして彼らは百の意見を出すことを惜《◆■J》しまない。単なる思いつきでなく、未熟でも書物に埋もれてできる限りの下調べをすることも。少ない|睡眠《すいみん》気力体力も割《さ》いて、真筆《しんし》に取り組むその姿こそが何より姑《うれ》しい。  前州牧《,レ・パ入》たちの志を、すべてを甘、くして継ごうとするその心が、州営たちの心を打つ。 「……姉から開きましたよ。百年先を考えた時、と紅州牧は言lつたそうですね」  柴彰はカチャリと眼鏡を外した。その下からは紛《−ァー、−》れもない微笑みが現れる。 「簡単に言える言葉ではありません。それは国の大計を為《左》す|宰相《さいしょう》の考え方です。……浪州争、茶州が百年後、紅藍両州に追いついていても私は|驚《おどろ》きませんよ。私たちは、のちのちまで史書に称《たた》えられる名大官二人の最初の一歩を手助けしているのかもしれませんね」  若く柔軟《じゆうな人》な思考、忌悍《きたん》なく意見を受《か》わせる場。周囲には長年の茶家の脅《おご》しにも屈《く∴》せず、文字通り命も省みず政事を志した硬骨《こうこつ》の官吏《カ人り》たちと、どんなに突っ走っても支えてくれる名相佐《まさ》がいる。彼らへの信頼《しんらい》と自信、そして何より三人《ヽヽ》』であるということ。 『だからね、影月くんと話し合ったんだけど−hそして告げられた次の言葉に、はっきり震《ふる》えた心は今でも鮮《あぎ》やかに思いだせる。  燕青は伸《の》びてきた|前髪《まえがみ》をぐしゃぐしゃとかきあげた。その下からは、こぼれんばかりの破顔一笑がのぞく。秀麗の、どこまでも上へ行きたいと言った鮮烈《せんれつ》な眼差しが、心から離《ほな》れない。 「……うん。ぞくぞくするよなぁ。俺さ、ずっと州営になりたかったけど、なーんか今は、姫《ひめ》さんたちの傍《そば》で、ずっと手を貸してやりてぇって思うんだよな。足りないところを少し補ってやるだけで、思いもよらない高みまで一気に駆《か》け上がってくれそうな気がするっていうかさ。いつだって|一生《いっしょう》懸命《けんめい》で手を抜《ぬ》かねーから、絶対期待以上のことしてくれるんだもんよ」  柴彰は気づかれないように笑った。……それは、まさにこの十年間の燕青自身でもあった。 「でも俺、茶州官だからな。ずっと傍にいんのは無理なんだよなー……」  州官になりたいと思ったから準試を受けた。いつか悠舜も影月も秀麗もいなくなってしまっても、自分だけは州府に留《とご》まって、地方官として力を尽くそうと思っていた。  けれど、自分の力になりたいと言った、秀魔のあの眼差しを見たとき!。 「そりゃそうですねぇ。茶州の安定が見えた以上、悠舜殿も遅《おそ》かれ早かれ中央からお呼びがかかるでしょうし。そのあと茶州を支えるのも州官冥利《九.ょ・りり》に尺、きる仕事じゃないですか」  にこやかながらも冷ややかな笑顔《えがお》に、燕青は頬《ほお》を引きつらせた。 「……一回俺が州牧職トンズラしかけたこと、まだ根にもってやがんな」 「別に」 「話は最後まで聞けよ。だからさ、悠舜がいないあいだ俺にべんきょー教えてくれよ」  今度こそ、柴彰ほ呆れ果てた。 「何いってんですかあなたは」 「だって悠舜も若才もいねーし。凛姫がお前に頼《たの》めば引き受けてくれるっていったんだもん。これに関しちゃ前払《よえばら》いもすんでるとかいってたけど、俺なんか払ったっけ? L柴彰はまるで酢《寺》を飲んだような顔をすると、深い|溜息《ためいき》とともに額を押さえた。 「……姉さん…余計なことを……」                                                                                                                                                                                                                                                    .、 「ほえーよなぁ。今度の春でお前と凛姫の任期切れなんてさ。もうそんなに経《ム7′》ったんだな。悠舜と凛姫もよーやく結婚《!?つこん》して柴のじっちゃんも大喜び。新婚旅行が仕事で責陽行きってのがら《ヽ》し《ヽ》く《ヽ》て《ヽ》笑えるけど、メデタシメデタシだな」克海と春姫の後を追うように、十年越《ご》しの想《おも》いを実らせて婚約・結婚した二人を、燕青は苦笑いしつつ思い|浮《う》かべた。燕青もあのじれったい二人には色々苦労したものだ。 (……しつかし、あの凛姫を嫁《よめ》にとれる悠舜が茶州でいちばんかっこいい男だよな……)  茶州でいちばん男らしくかっこいいのは誰かと年頃《としごろ》の娘《むすめ》に聞けば、まず間違いなく他《はか》の男どもをごぼう抜《ぬ》きにして柴凍《ヽヽ》がダソトツ首位を独走するはずだ。 「明日から|休憩《きゅうけい》時間は半分ですよ」 「え〜」 「それとここに書いた書物、明日までにしっかり丸暗記してきてください」  ぺいと投げられた紙切れを受けとって、燕青は顔を輝《かがや》かせた。 「マジで!?よっしゃ! 言ってみるもんだなー!」 「仕方ありません。……あなたは約束を守ってくれましたからね」  眼鏡をかけ直した柴彰の|呟《つぶや》きは、熱心に料紙を見つめる燕青の耳には届かなかった。 「なあこれ半分にして? 覚えらんわーんだよこーゆー詩とか句って。わけわからん」 「だから覚えるんでしょうが。ではトチるごとにそのあとのご飯のおかずを言UHずつ減らしますか。さすがに餓死《がし》されてはまずいので永とご飯だけは残して、さらに間違うようなら銅五百両ずつ借金に加えさせて頂くということで。全商連への善意の寄付にさせてもらいますよ」 「おおお鬼《おに》かてめー!」 「そんなことじゃ国試及第《きゅうだい》なんて夢のまた夢ですよ。準試の及第順位いくつでしたっけ?」燕青は反論もできずにばくばくとむなしく口を開閉させたのち、机案《つくえ》に突っ伏《・ー、》した。         掛身命命� 「まずは、朝質と工部攻略が鍵《こうりやくかぎ》となるでしょう」  カタカタと馬車に|隙《すき》られながら、悠舜はそう告げた。  賀陽に向かう馬車はたった二台。 「昌には荷物を、もう一台には秀麗たちが乗っている。頑《がん》丈《じょう》さを優先した質素な馬車だったが、ぼろいだけが取り柄《、、ヽヽヽヽヽヽヽ》の馬車で茶州に赴任《・Jに人》してきた秀麗にとっては、大変快適に過ごすことができた。馬車の外には静蘭を含《;! 、》めて五人の州軍兵が|騎馬《きば》で警護にあたっている。人数は少ないが静蘭と燕背お墨付《すみつ》きの精鋭《せ∴∵艮い》ということで、安全面も問題ない。事実、茶家に|追撃《ついげき》されていた時とは違《らが》って夜中に叩《たた》き起こされることもない。 「ああ……量陽が……貿陽が近づいてくるぅ……」  そんな中、一人ガタガタと震えているのは克泡であった。貫陽に近づくごとにどんよりと落ち込んでいく彼に、秀麗は茶州に残った新妻の代わりに背中をぽんぽんと叩いてやった。  悠舜ほコホンと|咳払《せきばら》いすると、話を続けた。 「前にもお話しいたしましたが……朝質は、主上へのU拝謁《はしlえ 「−》は勿論ですが、その前後《ヽ、》がより重要となります。新年や朝賀にかこつけて随所《ず∴∵しL》でひらかれる酒宴《し沌え人》に乗じ、滞《とご二お》っている案件の確約や次の除目の根回し等を行えるからですが……それゆえ、各州府も競って名うての薗腕官吏《√ごうでか人り》を送りこんでくるのが常なのです。州牧自ら参じるのも|珍《めずら》しくありません」 「……茶州では、いつもどなたが?」 「可能な限り、著才を向かわせました」秀席は目を丸くした。茶家と常に|一触《いっしょく》即発《そくはつ》の状態を構え、一人でも能吏《のうり》が惜しまれたはずの茶州府において、わざわざ彼を割いて送り出すとは!。 「着才には、毎年、ずいぶんと悔《/、や》しい思いをさせてしまいました」  そっと伏せた睫毛《まつげ》が翳《かげ》りの色を隠《かく》したが、秀鹿はすぐに察した。  燕青の州牧としての権限はただ茶州内に置いてのみ約束されるものであり、州外では何ら意味をなさない。燕青は参じたくてもかなわず、茶州にてギリギリの均衡《さんこ∴ノ》を支えていた悠舜も、よほどでない限り州府をでることは不可能だった。  他州との差異を目にしながら、十年、朝廷は沈黙《ちよ・りていちんLく》を守った。何事もないかのような毎年の無視は、朝廷にとっていかに茶州が軽く、どうでもよい場所かを知らしめる。  それは、いかばかりの屈辱《く 「lじよく》か。 「……だからこそ、あなたがたのご着任を、いちばん喜んだのも彼なのでしょう。著才の代わりは、並大抵《なみたいてい》のことではつとまりませんよ。どうぞお|覚悟《かくご 》を」すると悠舜の隣《となり》で、明るい笑い声が上がった。 「旦那《だんな》様、そう脅かすものではありません。あまり|緊張《きんちょう》させすぎては紅州牧の可愛《かわい》らしい笑顔も消えてしまうではありませんか。|大丈夫《だいじょうぶ》、紅州牧はちゃんとわかっておられる」諷爽《さl? てう》と鮮やかな笑みを閃《ひらめ》かせたのは、眼鏡《めがね》なしの柴彰! ではなかった。  男装しているがゆえに一見そっくりだが、柴彰より背が低く、細い顎《あご》や腰《こし》、二の腕など、全体的に小づくりで華著《きやしゃ》な印象を受ける。柴彰より|繊細《せんさい》でやわらかな線を描《えが》く顔立ちと、何より形良く押し出された胸が彼女の性別を物語る。州牧着任式のときに初めて|紹介《しょうかい》された彼女こそ柴彰の双子《ふたご》の姉であり、全商連茶州支部長・柴襟だった。 「それより|冗談《じょうだん》の一つでもおっしゃって、克泡殿《ビの》の緊張をほぐしてあげたらいかがです。私たちと違って、おかわいそうに新婚早々引き離されてしまったのですから」名前の通り凍々《))》しい彼女は、のらくらと得体の知れない柴彰より遥《はろ》かにかっこいい。商魂《しようこ人》たくましいのは同じでも、いつでもどこでも誰《だわ》にでも算盤《そろげん》をはじく世知辛《せちが・り》い弟と違って、柴凍は試供品のお茶に明細を送ってくるようなこともない。  男らしい柴凛の慰《左�、さ》めに、克泡は目を潤《∴ノろ》ませた。 「うう、ありがとうございます凛さん……。僕、僕に凛さんの男気の百分の一もあったら……ハッそうですよ! 凛さん僕の代わりに茶家当主として出て下さいませんか!?そうだ、なんて良い考えなんだ。そのあいだ僕がきちんと悠舜さんの奥さんを務めますから!」あまりの緊張に克洵の理性は空の彼方《かなた》に行ってしまったらしい。 「ちょちょちょっと克洵さん落ち着いてー! 一ガシッと柴凛の手を|握《にぎ》りしめる克泡に、柴凛は慌《者わ》てず|騒《さわ》がずさらりと告げた。 「それは無理だな」 「ど、どうして!?あっ、や、やっぱりお金がないと」 「いやいや、残念ながら克洵殿には私の代わりは務まらないからだよ。私に春姫殿《ごの》の代わりが務まらないように、旦那様への愛がないとね」ガーソと克泡はうなだれた。さりげなく悠舜が克泡の手を柴凛から外す。 「……その通りです……僕が、僕が間違ってました……愛がないとダメですよね……」   よろりと席に戻《一じぴJ》ると、克泡はぶつぶつと呟きはじめた。 「龍蓮さんとも約束したし……僕が頑張《バ∵人イ‥》らないと……。ああ龍蓮さん、ろくなお礼も言えないまま旅に出られてしまって……でもやっぱり貰陽まで|一緒《いっしょ》になんてご迷惑《めいわ′\》なことは言えなかったし……でも、うっ胃が痛い……。ごめんよ春姫……|精一杯《せいいっぱい》頑張るけど、君にまで恥《はじ》をかかせてしまうかも……いやいや弱気はダメだよね、そうだよね、ああでも」  秀魔は摩詞不思議《まわ——舟しぎ》な珍現象に首を傾《かし》げるしかなかった。 「……こ、克洵さん……いったいなんだってあんなに龍蓮を頼《たよ》りに……」   いったい|滞在《たいざい》中、二人の間にナニがあったというのだろう。 「大丈夫だよ紅州牧、弱音を吐《lL》いているだけなら上出来だ。なんだかんだいって章陽まで行く気なのだから、出る決心はちゃんとついてる。心配せずに、君は自分のことだけに集中していなさい。朝質は勿論《もちろ人》、例《ヽ》の《ヽ》案《1》件《ヽ》を通すために、もう一つも難題なのでしょう? 旦那様」  ことごとく自分の台詞《せりふ》を妻にとられたことに苦笑《くしょう》しつつも、悠舜は肯《うなず》いた。   秀麗と影月が二人で考え、|途中《とちゅう》で燕青に見つかってしまった案は、州官たちの死ぬ気の|根性《こんじょう》と悠舜の名手綱《ト�づキ》さばきによって、見事責陽行きまでになんとか大枠《おおわく》を詰《つ》めることができた。   その案件を実行に移すためには、茶州府だけではなく中央に打診《だしん》する必要があった。   今回の賞陽行きで、まずさぐりを入れるべきは、戸《.」》部、礼部、工部の三部署!。 「戸部と礼部は、なんとかなるでしょう。燕青では少々難しいですが、私なら直接上層部に繋《つな》ぎがとることができます。秀麗殿も幸い今までの伝手がありますから、鳳《ほう》…黄《こう》尚書や魯《ろ》尚書も話を開いてくださるでしょう。……問題なのは工部ですね」  悠舜はどうしたものかというような、ひどく困った顔をした。 「……確か今の工部尚書は管飛翔《かん豆しょう》なのでしたね……管飛翔、ですかしその〓調に、柴凛はちょっと|眉《まゆ》を上げた。 「もしや㈼那様は、そのかたとお知り合いなのですか?一 「…ええまあ。尖は私や黄尚書と同じ年に私第《きルうドし、》した同期なのですが……」  仰天《ヾ.ト1∴!!∴》する秀麗を視界にとらえつつも、珍しく悠舜は〓ごもった。 「とはいえあの年は……色々ありまして、史上最低の及第者数でしたので、何と申しますか、異常…いえいえ、非常にアクの強いかたはかりそろったと申しますか……」  筆記では奇人《きし人》と同舎になった者は黎藻《れしー�人》をのぞいてことごとく落第し、最終面接の殿試《でんし》で初めて奇人を見た他舎の受験者もたいてい頭がぶっ飛び、ろくな答えを返せなかった。おかげで、例年殿試での落第者はほとんどいないというのに、あの年ばかりはポロポロ落ちることになった。結果的に及第者はおしなべて奇人の超絶美貌《�ようぜ 「げげ・り》にも動じぬ人外精神力の持ち主(奇人変人)ばかりとなったのである。ちなみに現在ほとんどが大官に昇進《しょうしん》し、そろって朝廷中枢《�心∴ノナ∴ノ》を支えていることから遠心夢の国試組帖との異名をとっている。遍心夢』が 「。国試』にかかるのか『回試租』にかかるのかは人によって違うという。管飛翔も例に漏《−�》れずにその一人として現在工部尚書の地位に就《 「》いているのだが口。 「……今田の根回しは、戸部や礼部よりも、第一に工部を落ときわは話になりません。さぐりを入れる程度の話でも、次の段階に進むには何としても尚書と直《じか》に話す必要があります」 「ほい」 「が、管飛翔は同期とはいえ補佐《圭さ》の話で是《ぜ》と背くような男ではありません。私もできる限りの                    、._−ことを致《−_/》しますが、おそらく最終的にはあなた自身が引っ張り出さねばなりません」ただし、と悠舜の|優《やさ》しい降が官吏《けとみかんり》としての厳しい光を宿した。 「工部は尚書、侍郎ともにあなたの同試受験及《およ》び州牧派遣《はH∵人》に最後まで反対した部署の一つとの報告がきています。……この意味がおわかりですね?」秀麗はサッと色を変えると、下っ腹に力をこめた。�春の朝廷を思いだす。 「あなたが工部を攻略するのは至難でしょう。が、できねば茶州に帰れぬとお思い下さい」  秀麗は久々に味わう緊張感を掌《てのけら》に起りしめ、決然と肯いた。  そうー秀麗の立ち位置は、何一つ変わってなどいないのだ。 「−わかりました」  悠舜は背いたのち、ふと考えこむように秀麗を見つめた。 「……凛、そういえば例の木簡の……取引はどうなっておりますか?」  |唐突《とうとつ》な問いかけに、柴凛は小首を傾げた。 「七彩夜光塗杵《レ二り⊥・リ》の製造法及びその派生権利の獲得《・乃lくレTl、》の件ですか?それならば紅家は約定を守ったぞ。|今頃《いまごろ》H聖回幹部達�彩《さい》″で権利譲渡《じょうし」》の取引に移っているだろう」 「……そうですか。……もしかすると、もう一つ秀麗殿には問題が起きるかもしれませんね」  その言葉の意味を秀麗が知るのは、もうしばらくのちのことになる。  そして旅は続き−ついに賀陽は目と鼻の先にまできていた。新年を迎《むか》えて通りすぎた街や邑《む・り》は、どこも華《はな》やかに飾《かぎ》りつけられ、にぎやかに新しい年の|訪《おとず》れを祝っていた。  夜が深くなれば闇《やみ》に消える灯火《ともしぴ》も、この時節には絶え間なくあちこちで|輝《かがや》く。秀鹿は滞在する宿の一室で、見るともなしに屋が地上に落ちたようなその光景を眺《なが》めていた。 「どうぞお気をつけて……秀麗様。わたくしのことはご心配なさらなくて大丈夫ですわ』秀麗のー旅を知った香鈴は慌てるどころか逆に肝《lき 「一tJ》を据《す》えたらしく、不安定だった感情は出立までの間にすっかり落ち着きを取り戻していた。いつのまにか、香鈴もずいぶん強くなっていたことに気づいて、秀麗は|驚《おどろ》いた。  同時に、ふっと責陽のことが思い浮《. 「.》かぶ。茶州での時間は矢のように過ぎたのに、ほんの半年と少し前のことがひどく遠く思えた。父のこと、邵可邸《てい》のこと、経仮様や藍将軍のこと、胡蝶妓さんや街のみんな。賃仕事に駆《か》けずり回って、道寺塾《じゆく》で勉強を教えて、一繭《こ二》を弾《け》いて、野菜を値切って油や料紙を節約して。  不意に、耳元で囁《ささや》かれるような声が蘇《ょみがえ》る。時に楽しげに、時に優しく、時に大人びて。 「秀麗……』……玉座に座るかの人は、いまだ一人でいるという。        �16∵二        一う.バJJりエ机                                            トh◆八。★り′ハ、一�トー           オり′一  物憂げに前髪をかきあげると、しやらりと花智が玉鈴を奏でた。 「……まるで、海業《かいごう》の花のようだね」 「凍さん」 「失敬。一応声はかけたのだが」  室に入ってきた柴凛ほ、ちょっと残念そうな顔をした。……先ほどの、|匂《にお》いたつような艶《つや》と愁《うれ》いを帯びた表情は実に印象的で美しかったのに。 「秀麗殿はR一目と驚くほど大人びて|綺麗《き れい》になるね」 「何言ってるんですか! 凍さんたらお世辞言っても何も出ませんよ」 「おやおや。私を彰と一緒にしないでほしいものだ」  柴凛は苦笑すると、立ちあがろうとした秀麗を押しとどめた。 「ああ、お茶はお構いなく。座ったままで。ちょっと髪をいじらせてほしくてね」 「え」  しかし反駁《はんげく》する前にあれよあれよというまに背後に回られ、髪紐を解《と》かれてしまう。 「え、あの、り、凛さん!?」 「さあじっとして。そうかからないから。だいぶ顔色も良くなって、安心したよ」 「……すみません。もう|大丈夫《だいじょうぶ》です。責陽育ちなので、驚いちやって」  責陽が近づくにつれて、秀麗は徐々《ドレよけしょ》にある異変に気づいた。  茶州ですっかり日常的な光景となった、あのぴょこぴょこ視界を横切る黒いものが、貰陽に  近づくにつれて目に見えて激減していくのだ。まるで塵壌《ちりぼこり》一つ許さない神経質な家令がせっせと床磨《ゆかみが》きをしていて、その雑巾《ぞ∴ノき・八》でどんどん 「排除《はいじト{》hされていくように。.−1王都が不自然に片づいてるっていうか−』 「そうですそうです。僕も、貴陽は綺《ヽ》麗《ヽ》す《ヽ》ぎ《ヽ》る《ヽ》って、ずっと思ってました』茶州にくるとき、燕背と影月がしゃべっていたことの意味が、ようやくわかった。  空気の色さえどんどん透明《と・りめい》に冷えて澄《丁》んでいくような気がした。それがあまりにも椅麗すぎてきlいや、あ《1》り《1》え《1》な《ヽ》い《1》ほ《ヽ》ど《1》綺《1》麗《ヽ》す《1》ぎ《1》る《1》気《ヽ》が《1》し《ヽ》て《ヽ》、どうしようもなく薄気味《うすさみ》悪くて。  貴陽を出なくては、きっと一生わからない感覚だったろう。 「克拘殿もようやく憤れてきたようだよ。お二人とも少数派のようだね。たいてい妖《あやかし》の気配もしない『彩八柚に守護されし夢の都h《上�ろげ‥》にひどく感激するものだから 「柴凛は憤れた手つきで、まとめてあった秀麗の髪をほどいていく。 「貴陽育ちでは、茶州にきたときはさぞ驚いたろう。そうそう、あのときは道中、弟が色々と余計なことを言っただろう?長いこと彰のお守《一じ》りをさせて悪かったね」 「お守り!?いいえとんでもない! すごく色々教えてもらって−」 「いやいや、調子に乗ってしたり顔でいらぬことばかり言っていたはずだ。あいつが両州牧と|一緒《いっしょ》でめちゃくちゃご機嫌《さげ′れ》だったのは|間違《ま ちが》いないことだからね」秀鹿は目を点にした。……ご機嫌?そうは見えなかったけれども。 「……そういえば、凛さんは茶州全商連の支部長の庫を退いて、職掌の返還《しと・、し上うへ人かん》と後任選定も兼《か》ねて責陽にきたんですよね」 「そう、任期切れだからね。こればかりは仕方ない」 「後任ほやっぱり彰さんですか?」 「いや、むしろ弟のほうが仝商連からされいに手を引くことになるだろう」   秀麗の|驚愕《きょうがく》を察して、柴凛は小さく苦笑《1、しょう》した。 「……私たちが子供の頃《ころ》はね、柴家は本当に貧乏《げんば∴ノ》だったのだよ」   柴凛は優しい手つきで、するすると秀麗の豊かな黒髪を杭《lくしけで》った。  地方とはいえ名門として|誉《ほま》れ高く、代々多くの名官吏を輩出《はいしルつ》してきた柴一族。 「……だが我が家から輩出された官吏たちは、ことごとく茶家と、茶家にいいなりの州牧たち                                                                                                                                         ぎ′ブーJくに文句ぽっかりつけて逆らってきたからね。目をつけられて、名門だった柴家はどんどん没《°1.》《.》落してしまったのさ。それでも誰《だ11》一人茶家におもねらなかった。特に我が父は相当頑固《がんこ》だった。  母が私たちを食べさせるために、栄養失調で死んでしまっても、それでも民《たみ》のために屈《くり》するわけにはいかないと涙《なふだ》をこぼした父の姿を、私も彰もよく覚えている」  秀麗は息を呑《・の》み、柴凛は軽く笑い声を立てた。 「これはダメだ、と私も彰も思ったものだよ。あんまり頑固すぎる、とね。そこで私と彰は、商人になることに決めた」 「え? ァ 「……何かを為《な》すには、力が必要だ。でも、柴家はもはや茶家が歯牙《しん》にもかけないほどどん底に落ちてしまっていた。父はかろうじて州宮をしていたけれど、閑職《か人し卜†、》でね。いくら名門でも、父が清吏を貫《 「∴・再》いていても、これでは何一つ為すことはできない。だから私と彰は、まず金をためることにしたのさ。そうー経済力という力をね」硫る手がやみ、しなやかな指先が秀麗の両こめかみからそっと髪を二屠《∵.−.ふさ》ずつすくいとる。 「実力主義を貫く全商連なら茶家の圧力に屈しなくてすむ上、女性への門戸もわずかながら開かれている。私と彰は必死で商売の勉強をして全商連に入った。が、何も言わなかったから、烈火《れりか》のごとく父は|怒《おこ》ってね。一時は勘当《カ・九ご∴ノ》までされたものだ。ほほは、まあ当たり前だな」 「は、はははって…… 「そしたらしばらくして、燕背殿《ごの》と悠舜殿が赴任《ふに∵ん》してきた。ほら、動かない」秀麗は上げかけ比顔撮《.ノー》当て止めた。‥∵、lノ 「彼らは、無名の下っ端官吏だった父を発掘して、金華太守に任命した。私たちほそのとき、                        ノ  り彼らに誓《ょ・・‥.》ったのだよ。必ず近い内に茶州全商連の頂点に立つと。そしてすべてのカタをつけるそのときに、彼らが彼らのままならば力を貸そうと」ふと、柴凛が|微笑《ほほえ》んだような気配が伝わってきた。 「『十年待て』と、燕青殿は言った。『十年経《た》ったら、笑えるようにしてやる。俺が州牧じゃなくなっても、俺と悠舜が王様に掛《Jlり》け合って絶対マシな州牧引きずってくる』とね。彼らは……見事すぎるくらいに、約《ヽ》束《ヽ》を守ってくれた」秀麗は去年の夏を思いだした。髭《!?げ》ぼうぼうでお腹《なか》をすかせて、門前に行き|倒《たお》れていた燕青。  州外に出れば、何一つ州牧としての権限をもつことができないのにー。  彼は、あのとき、な《ヽ》ん《ヽ》の《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》に《ヽ》、紫《し》州へきたのか−今ならわかる。 「他の誰《はカ、だー1》も、彼ら以上に上手《うま》く茶州を変えていくことは決してできなかっただろう。今の君た                                                                                                                                                                              ー′.−ちであってもね。彼らがいたから、今の茶州がある。君たちに手渡《て 4◆ら》せるものがある。……感謝しているよ。ふふ、悠舜殿は結婚《�う二人》までさせてくれたしね」繊細《け7八ヽ−‥》な指先が動き、器用に編み込みがされていく。 「母は私たちを心から愛してくれた。そして同じくらい父も愛し、誇《ほ二》りに思っていた。母の葬《そ∴ノ》儀《ぎ》のとき、母と! 母を喪《うしな》った父のために泣いてくれた多くの人を見たよ。歴代の柴家官吏に救われたという人々が、溢《ホけlJ》れるほどの花を捧《七」LJ》げにきてくれた。それが、今まで柴家が没落と引き換《ノり》えに手に入れたものだった。……私も彰も、とことん柴家の大開だったのだよ。母を喪ったというのに、その原因となった歴代柴家官吏を誇りに思い、父を誇りに思ってしまったのだからね。父に変わって欲《は》しくなかった。皆《みな》に慕《した》われ、母をこのうえなく愛し、泣いてくれた父が好きだった。だから父の代わりに私たちが|冒険《ぼうけん》に出ることにしたのさ」それももうすぐ一つの終わりを迎《むか》える1と、柴凛は告げた。 「君と影月殿のおかげで、ようやく彰も、ずっと望んでいた道に進むことができるよ」  秀麗の|脳裏《のうり 》に、茶仲障に『指輪Lを届けにきた柴彰の眼差《まなぎ》しが思い浮かんだ。 『あなたには差し上げられない。それが、代々茶家の横暴に敢然《か人lぜ人》と立ち向かい、どれほど粛正《しゅくヤい》を受けようと決して屈さなかった誇り高き官吏《かんり》の一族、柴家の人間としての、私の答えですh  些《.し1−1一.、》かの迷いもなく、誇りやかに告げた。……思えば彼は、いつだって官吏だった。 「官吏に、ですね……」 「ああ。先に上で、愚弟《ぐてい》を待っていてやってくれ。私が支部長を引き受けて、彰に勉強の合間をつくってやったんだ。落第などしようものなら柴家から叩《たた》き出してやる。……ふふ、もしかしたら|今頃《いまごろ》、|妙《みょう》な受験仲間に弟子入り志願されているかもしれないな」柴凛は燕背を思い浮かべてにやにやした。一人より二人のほうがやる気もわくだろう。 「柴太守もきっと喜びますね」 「ん? ああ、そうかもしれないね。でもそんなことはどうでもいいことだよl… 「え?」 「彰は別に父のために官吏になるわけじゃない。弟《アレ》がなりたいからなるんだ」  するすると、いくつもの編み込みができ、簡素な智《かんぎし》で止められていく。 「父に何か言われたわけじゃない。父の姿を見て、私たち自身が、その想《おも》いと誇りを受け継《つ》ぎたいと思っただけだよ。人はね、必ず誰かに見られている。心の中にしまっているつもりでも、言葉、仕草、表情、行動の一つ一つからあふれて誰かの心に届く。善.《と》Lにつけ悪《あ》しきにつけ、それこそが人を動かす。たまたま我が父の|根性《こんじょう》の入った官吏|魂《だましい》が、子供に届いただけだよ」秀麗は十年前を思いだした。  花も実も魚も消えた庭院。横切った一匹《けさ》の痩《や》せた鼠《ねずみ》を、衛の人が血眼《ちよなこ》で追いかけて。  何一つできずに、ただ葬送《そうそう》のイ繭《こ二》を引いて死んでゆく人を看取《みと》るしかなかったとき。  官吏になれば、この光景を二度と見なくてすむのだと、思った。 「ふむ……やはりもう少し啓と髪紐《かみけlも》を購入《こうにゅう》しておくか。花は黄梅、偵梅《ろうばい》、寒木瓜《か人ぼ!?》、山茶花《さぎんか》、寒《か人》椿《つぱき》といったとこかな。�蕾″《つぱみ》を|邪魔《じゃま 》しないよう……宝飾《ほうしょく》ほおさえて一つ二つか。耳環《じ▼Lげ人》は小さめで良質の石と細工の……やはり紅玉かな。あとは連珠《∫l人じゆ》の腕環《うでわ》を」耳に入ってきた独自に秀麗は我に返った。 「あ、あの凛さん? な、なんのお話を……− 「お楽しみはとっておくものだよ。さっきの続きだが、少なくとも私と彰は、短くとも茶州での君たちを見てきたよ」柴凛は複雑に結《沌》った髪《かふ》をあっさりほどき、また元の髪型《かみがた》に結い直し始めた。 「君と杜州牧だけが茶州にきてくれた。歳《し」し》も性別も関係ない。志と、想いの深さが他の官吏より優《きごこ》っていただけだ。忘れないでくれ。私も彰も、十三歳状元と初の女性官吏の赴任を喜んだわけではない。男だろうが女だろうがろくでなしだったら彰は叩き出していただろう。紅秀一踵と杜影月という二人によって、多くの人が動いたのだよ。だから何を言われても、胸を張りなさい。傷つく必要はない。どんなことだってね、つきつめれば本当は男も女も関係ない。誰だって、やりたいことだから|頑張《がんば 》るんだ。まあ出る杭《くい》はとりあえず打たれるものなんだよ。打たれても出るのが本物だ。自慢《ドし.1∵人》じゃないが、私も彰も出るまでは散々打たれてきたぞ」秀麗は思わず笑ってしまった。|優《やさ》しい励《まプ7》ましが心に染《し》みる。 「はい。そういえば、支部長を退いたら凛さんはご商売どうするんですかフ」 「うん? 育ってきた若い衆に暖簾《のれん》を預けて」 「やっぱりご家庭に」 「いやいや、発明に専念する」   秀麗は奇想天外《さそうてんがい》な答えにしばし絶句した。 「……………………は、バツメイ……?」 「そう。元々私は発明の成果を評価されて全商連入りをしたんだ。悠舜殿の車椅子《くるまいす》も私の発明だしね。頭《ここ》さえあればいつでもどこでも儲《・もう》けられる。客人の嬉《うわ》しそうな顔も見ることができて一石二鳥。こんな楽しいことを結婚であきらめられるわけがない。悠舜殿と出逢《であ》ってから、体が不自由でも|普通《ふ つう》に生活できる発明をしたいと思ってたんだ。旦那《だんな》様が仕事と妻を愛することを両立できるなら、私にだってできるさ。当たり前のことだよ」あっけらかんと言われて、秀麗は数相《◆ネく》のち、盛大に吹《,l、》きだした。 「り、凍さんかっこいい」 「ああ、なぜかよく言われる。君はこれからもっと魅力《ふりよ′\》的な女性になるだろう。楽しみだ」  諷爽《さつそう》とした微笑《げしょう》に思わず惚《ほ》れてしまいそうにな薫これが双子《ふらl−》の弟となると、同じ笑顔《えがお》でもなぜか 「何か企《た/、・り》んでいる」としか思えないのが摩討不思議《よカふしぎ》である。 「君は、茶州が誇れる州牧であることを忘れずにね」  柴凛が出ていったあと、秀麗は思いついて上衣を羽織り、室を出た。  州牧が泊《レし》まるにはずいぶん質素な宿といえようが、秀麗にとっては中の上の宿屋はかなりのイ∴た・、贅沢といえる。  廊下《ろうか》の突《つ》き当たりに、小さな露台《ろだい》があった。  |凍《こお》りつくような寒さが、懐《なつ》かしい。  秀麗は露台に出て、氷のような手すりに手をかけた。  見慣れた、降るような星実《ほLぞ・り》を見上げ、次いでまっすぐ−貴陽の方角を見つめる。   ふわり、と秀麗の肩《かた》に毛布がかけられた。  秀麗は長い長い問、無言で貴陽を見つめていた。そしてー一� 「静蘭」 「皿い」            を  振り返った秀麗の稟顔は、静蘭も見たことがないほど鮮やかなものだった。 「頑張ってくるわ」  静蘭は思わず手を伸《▼)》ばしそうになる衝動《ししそつごう》をこらえた。  いつもは水を飲むようにたやすく|浮《う》かべることができる笑顔が、これほど難しかったことはなかった。 「……ほい」  今まで守ってきた少女が、完全に自分の手を必要としなくなったことを、静蘭は知った。   いや、本当はとっくにわかっていたのに、気づきたくなかっただけだということを。         等   吾l噛傍 「主上」 「断る」 「私が|縁談《えんだん》をもってくるわけないでしょうが」 「なんだ絳攸か。……久々に会う気がするな」   経仮は王のヤサグレ具合にやれやれと|溜息《ためいき》をついた。しかし確かに毎日のように高官たちに押し入られる光景を見ていては、さすがに同情したくもなる。自分だったら退官する勢いだ。   だが、きっとこの報《しらせ》を聞けば元気になるだろう。   敬語を使うのは何やら面《おも》はゆい気もするが、彼女の官位は今や自分よりも士である。 「茶州州牧紅秀麗様及《およ》び茶州州声部悠舜様、茶家ご当主茶克洵様、明後日にはご大都とのことです。謁見《えっけん》の申し入れは同日正午となっておりますが」  |執務《しつむ》をしていた王の筆が止まった。そして数柏の沈黙《ちん一じく》のるち、肯《うなず》く。 「わかった。茶克洵から先に会おう。彼で最後だったはずだな。七家の也員陽邸《てい》にそれぞれ登城の通達を。茶州州牧及び州声の謁見はそのあとだ。時間の調整は任せる」  予想外の冷静な反応に絳攸は|驚《おどろ》きを通りこして|呆気《あっけ 》にとられた。見れば表情も変わることな  く、ごく普通の案件を処理しているときと同じ静かな顔をしている。 「主上……」 「なんだ?ああ、そういえば楸瑛に伝言を頼《たじl−》む。黒《こ′\》大将軍と白《はく》大将軍に、新年だからといってあんまり飲みすぎるなと言っておいてくれ。なんだか司農寺《Lのうじ》から、一年分の酒が正月だけで両大将軍と管尚書の腹に消えてしまうと涙《左みだ》ながらの奏上があがってきたぞ」……なんか拾い食いとかしましたか」 「秋ならともかく、冬はあまり落ちモノはないぞ。他《ほか》に用がないなら下がれ。お前も紅尚書に押しっけられた軒家の新年切り盛りで忙《い・てが》しいはずだろう」その通りだった。楸瑛がこの場にいないのも同じ事情からだがー秀麗登城の報《し・りせ》を受けて、少しでも早く耳に入れたいと思って抜《山》けてきたのだ。しかしーこの反応のなさは。  疲《−一Jり》れてはいるようだが、別に機嫌《さげん》が悪いようでもない。いつも通り《ヽヽヽヽヽ》に見える。  緯仮は狐《きlわ》につままれたような気分で退出した。……確かに、一人|妙《みょう》な先走りをされても困ると思ってはいたがー。  劉輝《り:骨・)篭J》は縁故の退出後、何かを思うようにわずかに日を閉じぶそしてまた何事もないかのよ                           「・、.ーへうにたった一人で《す》机案に向かったのだった。  邵可は、軒《こるま》から降りる娘を迎《むすめむか》えて少しく陛目《ごうもノ、》し、そして|微笑《ほほえ》んだ。  以前より遥《はる》かに大人びた面差しと、まるで出陣前《し沌つじ人壬え》のような毅然《さぜん》とした眼差《まなぎ》し。  官吏《かんり》の顔をした娘に、お帰りという言葉はまだ早かった。 「行ってきなさい」  帰ったばかりの娘にそう告げると、秀麗はにっこりと笑った。 「うん、頑張ってくるわ。ただいまはそのあとわしそして邵可はもう一人の家族を迎える。 「お帰り静蘭。よく帰ってきたね」  小波のように膵が揺《ひとみ陣》れたのちー静蘭は安堵《あ人ビ》したようにやわらかく笑った。         尊母㈯繚昏 「まさか、寛陽《二二》まできて|暇《ひま》ができるとは思わなかったが……」  三十前後の青年は、軽くこめかみを押さえた。拍子《rlトLうし》にさらりと流れた袖《そで》の色は、抑《おさ》えた紅。 「新たな茶家当、王はずいぶんな幸運に恵《め〜・》まれたものだな。だが運も実力のうち……茶鴛洵《さえんじ嘩ん》殿は      二.ノ十r ー良き後《ト》継《rょ1.Fl》を育てられたものだ」少し冷たそうに見える横顔が、片隅《かたすム》に積まれた文の山に向けられる。 「良い機会だ。我が紅家の跡《あと一ノ》継ぎも、そろそろなんとかせねば……」                                                                                                                                                                                                                                                                                     ——   1  新年を迎えて一族の長姉は 「八に、次期当主と目す義理の甥《・∫.ニー》は二上川になってしまった。ふと、去年の春に会った姪《めい》を思いだし、微《か 「》かに笑む。  −七彩夜光塗料《し」りょう》の製造法及び派生権利の移譲《いじよ、J》など安いものだ。 「見事だった」  与《あた》えたのは単なるきっかけ。彼女が全商連に持ち込まねばなんの意味もなさないもの。けれど最善の策をとるならば必ず選ぶはずの選択肢《せ人ト∵、し》。そしてそれだけの能力があるなら、判断次第《しだい》で最|短|距離《きょり 》の道にも繋《つ左》がるもの。  彼女は、迷わずそのたった一本の道を選んだ。  紅本家の名をもつことの意味を知り、臆《おく》さず、頼《たよ》り切ることもせず、最後まで目的に対する手段と駆《■り》け引きにのみ留め、州牧としての能力はすべて自らの行動で示した。  輩出《!?いしゅつ》した紅家としても、自分の姪としても、申し分なく誇《ほ二》ることができる。気立ても抜群《ばつぐ人》。  まったく、あのとぼけた長兄のもとで、よくぞああようなできた娘が育ったものだ。 「ますます他家にくれてやるわけにはいかぬ」   ついと筆をとると、紅玖項は李経仮に宛《あ》てて何ごとか文を書き付けはじめた。                                                                                                                         ——1.1                         で         一て・         叡                                                          二�r  克泡は叩頭《▼−.リーレ一∴ノ》したまま、他の当主が一人、また一人と入室する足音だけを聞いていた。 (い、い、いちばん最後の大都だったなんて   っっっ)  ダラダラと冷《ナ》や|汗《あせ》がたれる。彩七家でも末席で、当主に就任したばかりの若輩《じやくはい》者だというのに、しよつばなからやってしまった。ああもう泣きたい。   そんなとき、不意にきわめきが走った。克泡はビクッとしたが、頭を上げられないので何が起こっているのか皆目《シ�も・、》見当がつかなかった。 (え!?もしかして僕の恰好《かつ二う》どこかへソとか!?)   最終的に英姫が太鼓判《たいこば人》を押してくれたので安心していたが−実は都の流行から立ち後れているとか、そもそも|礼儀《れいぎ 》がなってないとか、立ってる場所が違《ちが》うとか−。  ぐるぐると思考が悪循環《じゅんか人》し、耳鳴りのlように動怪《ごうき》が激しくなる。   もはや|卒倒《そっとう》しないようにするのが精一杯《せいい 「はい》だった。 「差し許す。皆《みな》、面を上げよ」  落ち着いた! 克胸とたいして歳《レ」し》の違わぬ青年の声だった。  何の疑問もなく顔を上げ−真正面に座る玉座の主の|美貌《び ぼう》にまず驚く。 (うわぁ、か、かっこいい。朔洵兄上と張る……あ、あの高そうな扇も《おうぎ》ってる真っ赤な人が、秀麗さんのご|親戚《しんせき》のかたかな……。あれ、もう一人僕と同じくらいの人が−)目にも綾《あや》な七家の色をまとい、次々と顔を上げていく当、王たちのなか、王の左隣《けだりどなり》にいる人物の顔を見て、克泡は思わずぎょっと声を上げてしまった。 「りゆ、龍蓮さん白1  −  つつ!?」  控《!?か》えの間で秀麗と悠舜が待っていると、下更が寄ってきて悠舜に文を手渡《てわた》した。  それに日を適した悠舜ほ、にっこりと微笑んだ。 「秀廊殿《ごの》、克洵殿は見事に難関を|突破《とっぱ 》したようですよ」 「本当ですか!?」 「ええ。どうやら見事紅藍両家の 「大物』を釣《つ》り上げたようですね。前当主の茶鴛洵殿をも超《こ》える若き辣腕《一り 「わ′八》当主の誕生かと、朝廷は大騒《ちょうていおおさわ》ぎになっているそうですよ。きっと明日から克洵殿は、繋ぎをとろうとする方々から、あちこちで引っ張りだこになるでしょうね」藍龍蓮はともかく、紅黎深まで出席するとはさすがに悠舜も思わなかった。悠舜の知る限り、当主就任以来彼が朝賀に出席したことなど一度もなかったはずだ。責陽にいながらいつも弟の紅玖項に押しっけてトンズラしていたのだ。  ちなみに藍家の当主たちも右に同じだったはずだ。が−1『藍龍蓮』の臨席は、ある意味で  藍家当主以上の価値がある。前王でさえかなわなかったあの二人の『視辞』を受けるとは、茶克泡への餞《はなむけ》としてこれ以上望むべくもない。  それは紅藍両家が若き茶家当主の後ろ盾《だて》に立ったことを意味する。うるさく文句を垂れていた茶家親族も、これで一気におとなしくなるだろう。  茶克渦があの二人と繋がりのある秀麗と出会ったのは運といえようが、朝賀にまで引っ張りだしたのは茶州での克洵自身の行動によるものだ。−彼は、見事に運を力に変えた。 「……茶家は、もう|大丈夫《だいじょうぶ》でしょう。次は私たちの番ですね。現王陛下にお会いするのほ|即位《そくい 》式《しさ》以来ですが、さて、どれほどお変わりになられたのやら」最後の言葉に|珍《めずら》しく麻《とげ》のようなものを感じて、秀麗は目を丸くした。  ア……もしかして悠舜さん、あまり、王に良い感情をお持ちでほない、とか」  悠舜ほ|優《やさ》しげな表情に、ほんのり苦笑《くしょう》を惨《にじ》ませた。 「そうですね。即位式のときの主上は、適当に体裁《ていさい》は取り繕《つくろ》っておられましたが、私の見た限りではやる気も意欲も皆無《かいむ》でしたので」やわらかながらも厳しい物言いに、秀麗の全身から音を立てて血の気がひいていく。 (……そ、そういえばあのころはすんごい昏君《ぼかとの》だったんだっけ……)  その半年後、秀麗が根性叩《こんじようたた》き直し係として駆り出されるくらいに。 「ま、待ってください。でも」 「勿論《もちろん》、その後の主上のお|噂《うわさ》は耳にしております。燕青やあなた方の任命・派遣《はけん》に対する評価もいたしましょう。ですが、最終的には自分の目で確かめませんとね」 「……厳、しいですね」 「あのときの、下士のお姿には官吏として失望いたしましたので、現段階では些《いささ》か点は辛《か・り》いでしょうね。どんな理由があれ、玉座に座ることを選んだからにはそれに付随《ふずい》する義務と責任を負わなくてはなりません。それがたとえ、永遠なる孤独《こどノ、》の道であったとしても……」秀麗が最後のひと言にハッと顔を上げると、悠舜の|穏《おだ》やかな鉾と目が合った。 「宮吏が土に妥協《バ」1∵Lトう》をするようになれば、あとは転がり落ちるだけです」  秀麗はどこか薄《うす》ら寒いような居心地《一ノ」二ら》の悪さを感じた。……悠舜さんの言葉は正しい。きっと鋒傲様も藍将軍も、根本的に同じことを思い、王に接している。 (……だったら、『劉輝帖は?)                                  ′,——−  秀麗以外の誰《◆ノ・∫1》も、彼の名を呼ぶ者はいない。誰も 「劉輝」など必要としてはいない。  それでは、あの夜に|寂《さび》しいと吾げた彼は、どこで息をつくときがあるのだろう。  誰に甘えて、その寂しさをまざらわせることができるというのだろう。 『それでも、余は寂しい』   −秀麗はようやく、あの言葉の本当の意味がわかったような気がした。  そして扉《し一バ・∴》が開かれる。 「−茶州州牧紅秀麗様、及《およ》び州ヂ鄭悠舜様、謁見《え 「H∵ん》のお許しがでました。どうぞこちらへ」         登簿㈹凍埴  土が群臣と接見するための宣政殿には、ぞく昔くと人が集まってきていた。 「……静々《エ:つこ二ノ》たる顔ぶれですねぇ。わぁ、異州の僻《カ..》州牧までご臨席なさってますよしそわそわとした副官の|囁《ささや》きに、仮面の尚書は軽い|溜息《ためいき》をついた。 「お前も、その静々たる顔ぶれ《ヽ1ヽヽヽヽヽ》の一人とわかlつているか?柚梨《ゆうり》」 「私は単に秀くんと、かの伝説の鄭官吏《か人り》のお姿を拝見したいだけです。それにしても秀くん、                                                                                                                        .ノ  ‘大丈夫でしょうか……長旅でずいぶんと疲《√l一れり》れているんじゃ……。あ、これは魯尚書」 「……ご無理をせずに。今年の全州試及第者が《き時うだいしゃ》でそろって、お忙《いそが》しい時期でしょう」奇人の気遣《さづか》いに、一つ下座に並んだかつての教導官は微《か寸》かに頬《ほお》を緩《ゆる》めた。 「ふ……教え子たちの凱旋《がいせん》をこの目で見るのは、私の楽しみの一つですぞ。あなたと紅尚書の任命のおりも、遠くから拝見させて頂いたものです」仮面をしていても上司の|機嫌《き げん》を読みとれる凄腕《すごうで》の副官・景侍郎は、奇人が仮面の裏で苦笑しつつ照れているのを見てとった。そして次第に増えていく物見高い官吏たちに渋面《!?こ撃うふ町人》になる。  百官が参列する正式な朝質は建前として元口のみとされる。とはいえ大概《たいがい》一日で終わらない  ため、王は連日のように群臣たちの醜賀を受けることになるのだが、元日以外はほとんど|普通《ふ つう》の謁見と同じ扱《ムlつか》いになり、別に参列は強制されない。各自気になる官吏の謁見時にそれぞれ様子見や義理で顔を出すくらいである。が−。 「なんですかこの野次馬の数は……野次られること確実じゃないですか」 「……私もお前も野次馬だろうが」 「なんです、あなた野次るつもりでいらしたんですか。ならとっとと出てってください」  本気で目をつりあげた景侍郎に奇人はたじろぎ、その様子に魯尚書が笑《え》む。 「黄尚書は、よい副官をおもちになられましたな」 「そうそう、君にはもったいない。大丈夫だよ景侍郎、いざとなったらこの男の仮面を鮒《◆ 》がせばいいことだから」上座に並んだ男の上から下まで黄紅のいでたちに、奇人は唖然《ムぜ人》とした。 「…つぉ前、何だその恰好《乙 「こぅ》は」 「|着替《きが》えてる余裕《ょけう》がなかったんだよ」          、J�うアう 「同庫が窮《ゃ′l−》乏《‘》したらまっさきに身ぐるみ剥がすやつが決まったな」 「ああ、藍家は相変わらず宝石じゃらじゃらくっつけてたよ。剥《む》けば三百年くらいは楽に|潤《うるお》うはずだ。遠慮《、えんりょ》なくやりたまえ。まったく兄弟そろって派手好きで気に喰《く》わん」藍家ではなくお前だ、と言いかけた奇人は、ふと士の|両脇《りょうわき》に控えた李《)》経仮と藍楸瑛の姿を見留めた。藍楸瑛はいつも通りの武宮姿なので、どうやら今年は藍家も例年の代理とは違って、  別《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》物《ヽ》を送りこんだらしい。   そのとき、野次馬の多きにびびったように、大殿を告げる下更がせわしない|咳払《せきばら》いをした。 「−茶州州牧紅秀麗様、及び茶州州夢鄭悠舜様、ご大殿でございます」   下吏の声が|響《ひび》き、その場のすべての者の視線が|一斉《いっせい》に正面扉に向かう。   ……そして次の瞬間、《し沌んわ.ん》魯尚書は|眉《まゆ》を跳《は》ね上げ、景侍即は思わず口をあけた。奇人は仮面の裏で瞭目《ご、り一りノ、》し�黎深の扇の音がやんだ。   その報《し・りせ》を伝え聞いた瞬間、碧的明《へさはくめい》はとるものもとりあえず登城に駆《か》けた。 (帰ってきただと!)  自分の状元及第の野望を軋《◆ ∫》んだ三人のうちの一人。   進士式をすっぽかしてトンズラした一人は論外だが、残りの二人は春の朝廷一時留め置きの折り、能なし官吏たちの|馬鹿《ばか》な嫌《いや》がらせにもめげず、この自分を抜《ぬ》いて及第したぶんのことはまあそこそこやった。   そして二人ともに異例中の異例の任官を受け、新米ながら二人同時州牧として|一触《いっしょく》即発《そくはつ》の茶州に旅立っていった。   かつて五体満足で帰った州牧は数えるほどしかいないと言われていた茶州。 (ふ、ふん、別に、心配なんかしていなかったが)   たった半年と少しで、茶州の状況《‥しよ・りき」よ∴ノ》は激変した。  茶一族の、多くの紺紺《圭ごく》とー計報《ふほう》がぞくぞくと伝えられるなか、あの二人の情報だけはいつだって流動的で、不確かなことばかりだった。茶州に入ったらしいと聞いた次には、なんだか全員行方知れずになったとか、いきなり州都に現れたと思えばまた所在がわからなくなったとかー。なかなか着任式の報も届かず、混乱に巻きこまれて死んだとかいうふざけた話を得意げにするやつらも増え、朗明のイライラも頂点に達した。 (もし死んでみろ、お百度参りでも何でもして怒鳴《ヒhへ》りこんでやる)  冷静沈着《トrJ人ら∴γ‥》な自分がそんな意味不明なことをうっかり考えてしまうほどであった。  そして�本当に期限ギリギリで、全員無事に着任式が|終了《しゅうりょう》したという報が届いたのだ。しかも、茶家の劇的な当、圭父代と一斉検挙を同時に行うという華々《は左げな》しい成果とともに。  歴代の州牧が頭を痛めてきた問題を、あの二人は一刀両断したのだ。  あのとき朝更《らようて.》を駆けめぐった|衝撃《しょうげき》を、由明だけは鼻であしらったものだ。 (この僕と互角《∴−れりく》に競った相手なら、それくらいやってのけて当然だ!)  まだ事後処理が山と残っているはずだから、今年の朝質にはこないかと思ったが−。  荊明は裾《すそ》を蹴立《!?た》てて宣政殿に駆けた。  たった半年と少しだ。別に何が変わったわけでもあるまい。だが−。  いつもは固く閉《し、》ざされている宣政殿側面扉の一つが開いているのを見つけ、すべりこむ。物見高いだけの官吏たちに舌打ちしながら、姿が見える場所を|素早《す ばや》くさがして体をねじ込んだ。 (む。あれが−郵官吏か)   まず日に入ってきたのは、|優《やさ》しげな面差《おもぎ》しの官吏だった。穏やかな双陣《そうぼう》はあふれるはどの叡《えい》智《ち》を秘め、その奥に掛《わ》れる意思の強さが繊弱《せんじゃく》さを一掃《いつそう》する。気負いのない落ち着いた物腰《ものごし》にはゆったりとした自信と深慮《しんり・よ》が垣間見《かい童み》え、少し体を傾《かたむ》け、足をかばって歩む姿も、渉《にじ》み出るような彼の品性を些かも損ないはしなかった。吏《ー》部・戸部両尚書とはまた違《ちが》ったーある意味で一段上の器《うつわ》さえ感じさせる、静譜《せいけつ》で揺るぎない大樹のような名官吏がそこにいた。   いまだ一州事として従四品下の位にあるのがこれほどそぐわない人物もいまい。   次いで彼の陰《かげ》で|右腕《みぎうで》を支えて|一緒《いっしょ》に進む小柄《こが・り》な姿を発見し1−泊明は目を丸くした。  三品位を示す官服ほ、女性仕様のせいか見た目に優しい印象な受ける。腰《こし》には茶州州花�月彩花″を彫《ほ》りこんだ州牧印をさげ、複雑に結い上げられた髪《かみ》には冠《カ人むり》の代わりに�蕾″《つぼみ》の花智が《はなかんぎし》揺れていた。真紅の寒椿《かんつばき》を中心に黄梅や岨梅《ろうばい》の小さな黄花も散らされ、わざと艶消《つやけ》しした上品な金歩揺《きんはよう》や髪紐《かみけも》で華《はな》やかでも派手すぎずに彩《いろご》られている。耳には小粒《こつ!?》だが良質の紅玉の耳環《じかん》が揺れ、右手首には細い銀の腕環《うでわ》が二連からまるようにはまり、草書《きやしゃ》な手首をいっそう引き立てる。裾からのぞく小さな足は、春と同じ布沓《ぬのぐつ》におさまっていたが、生地《きじ》は士等な綿製だった。  だが、いちばん|驚《おどろ》いたのはそんなことではなかった。 (……あいつ……?)   泊明の生真面目《\−よじめ》な顔に、サッと朱《しけ》がさしこんだ。  最初は、髪型《かみがた》や化粧《けしょう》のせいかと思ったがー違った。  凛《りん》とした顔つきは同じだったが、受ける印象が以前よりもずっと大人びていた。去年の春に                                                                     ハブ  ぬほ自分と同じく確かにあった『半人前の子供』の部分が、まるで殻《ノり、すl》を脱ぎ捨てたかのようにぬぐい去られている。ただ明るくまっすぐ前を見据《みす》えていた眼差《よなぎ》しは、今やしなやかな柔軟《じゆうなん》さと濃《こ》い深みを帯びて、とらえされない複雑な色合いを醸《かも》していた。  とりどりの髪飾《かみかぎ》りや宝石細工や、ましてや髪型のせいでもない。  いつのまに、艶《つや》やかな真紅の椿をも引き《ヽヽ》立て役にし《ヽヽヽ11》てしまえ《1ヽ1ヽ》る《ヽ》ようになったのだろう。  十人並みの顔立ちが変わったわけではない。  内面の変化が、これほど顕著《!?∵九L∵よ》に外見に|影響《えいきょう》を及ぼすのを、由明は初めて見た。  気づかないほうがおかしい。 (騎虎《されい》に、なった)  本当に素直に、由明はそう思った。  |妙《みょう》に静まりかえっている。 (……? 前みたいに悪意丸出しとかトゲトゲな視線じゃないような……)  柴凛に時間いっぱいかけてこれでもかというほど飾り立てられたときは−1−元日ではないから|大丈夫《だいじょうぶ》と悠舜にお墨付《守みつ》きはもらったとはいえ〜相当の野次や|罵声《ば せい》は|覚悟《かくご 》したのだが。  悠舜さんがいるからかもしれないと一人合点《がてん》して少し顔を上げると、何やら喜色満面な悠舜  の笑顔とかちあった。まるで鼻歌でも歌い出しそうである。 「ふふ。なかなか、良い気分ですね」  大胆《だし、たん》にもこそっと|囁《ささや》く悠舜にぎょっとしつつも、秀麗はパテと首を傾《かし》げた。 (良い気分?77)  秀麗は頭に刺《お.」》さっている椿が落ちそうでむしろはらはらしているのだが。 (……ああ……せめて淡紅色にしてくださいっていったのに……)  真っ赤な椿なんて似合うわけないと何度も嘆願《たんがん》したのに、柴凛はにこやかに決行した。 『これはね、�紅《ヾ=》の剣″《つるぎ》という名の椿なんだよ。これで出陣《しゅつじん》しないでどうするし不意に腕を支えていた悠舜にさりげなく袖《そで》を引かれ、いつのまにか止まるべきところまできていたことに気づいて慌《あわ》てて気を引き締《し》めた。  悠舜が|膝《ひざ》をつけるように手を貸し、次いで彼より一歩前に進み出《し》で、秀産も正式な脆拝《きはい》の礼をとる。こうして|儀礼《ぎ れい》を破って悠舜の手助けをすることに、何らかの文句や禁止を言い渡《わた》されるのを覚悟していたのだが、事前に通達がなされていたのか、ここまで|一切《いっさい》ない。   もしそうであるなら、誰《ヽ》の《ヽ》通達なのか、今の秀腰にはわかっていた。   彼に仕えることのできる自分を、誇《はこ》らしく思える。  気づけば凪《な》いだ水面《みなも》のように、心が澄《す》んでいた。……大丈夫。  両手を組み、頭《こうペ》をいっそう深く垂れると、�蕾″の花轡がしゃらりと鳴った。 「茶州州牧紅秀麗、及《およ》び茶州州努鄭悠舜、ただいま罷《まか》りこしました」  芦がかかるまでの時間は、長かったのか、短かったのか一。 「……|双方《そうほう》、面《おもて》を」  少しかすれて、淡々《たんたん》とした声が降ってくる。  進士式の時の、顔も見えないような|距離《きょり 》ではない。−近い。 「−あげよ」  ぐっと、秀麗は顔を上げた。  硝子《が・り丁》玉のような、感情を排《はい》した双陣。冷然たる壬の表情を見て−。  秀麗はあざやかに笑ってみせた。  |椅子《いす》の腕にゆったりとかけた王の手が傍目《はため》にわからぬほど微《カす》かに動いたのを、楸瑛ほ視界の隅《寸み》でとらえた。  けれど、それだけだった。  無感情とさえいえる声も、近頃頓《とみ》に冴《さ》えを増した眉目秀麗《げ一ツ\しゅうれい》な横顔も、他に一切変化はない。  公《おおやけ》の場にしては|珍《めずら》しく経仮が驚きを露《あ・り》わにしているのとは実に対照的だった。 (しかしこれは……無理もない……)  軟瑛自身驚いていた。そしてつくづくと、見知っているはずの少女を見直した。  龍蓮《おとうと》がいきなり貴陽にやってきて、彩七家当主朝質に出ると言ったときと同じ衝撃だった。  茶州で起きたことの、表面的な情報はおさえてある。  けれど一年も経《た》たずに、ここまで面差しが変わるほど彼女自身に深い影響を及ぼしたものだとは思わなかった。  もう誰も、彼女をして『十人並み』などとはいえまい。  ……だからこそ、陵毛《王つげ》さえ揺らすことのない王が逆に|訝《いぶか》しかった。それこそ玉座を立ちあがるくらいはしてもおかしくないと思って、あえて経仮と両脇に控《りょうわさけか》えていたのだが。  まるで、親しく過ごした|僅《わず》かな時など、煙《りむり》のように消えてしまったかのように。 (危《ムや》ういー気がする)  楸瑛ほ、まるでひびの入った硝子細工を見ているような気がした。                ..∴∵      工ゃ   �                                                          .−                 《.》《1》.いJl 「〓一那《ド∵在た》様は宮城にお行きにならなくていいんですか?」  印可は静蘭の滴れてくれたお茶を久しぶりに堪能《ト∵人りう》し、にこにこしていた。 「うん?別に心配するようなことは何もないからね。待っていれば帰ってくるし」  風が、梢《こでえ》を揺らす音が聞こえる。  庭院の木々が花の香《かお》りであふれていた春を、静蘭は覚えている。元気だった奥方と、秀麗と、邵可の四人で、池の魚と水遊びをした夏。柿《かヽ.−》拾いと落葉焚《た》きをした秋に、一面銀世界に染まっ  た夜、熱を出した秀麗のために小さな雪うさぎをつくった冬。優しい時のなかで|微笑《ほほえ》むことを思いだし、雷雨《・りいう》の夜に大切な人を喪《うしな》う絶望を知った。  この邸《やしさ》で、彼はl『此《し》静蘭』になった。  それから、時はまたたくまに過ぎゆきて。 「旦那様……お嬢様には、最初から私の手など必要ではなかったのですね」 「そうだね。秀麗を必要としたのは、私と君のほうだったからね」  邵可は|穏《おだ》やかに静蘭を見つめた。 「あの子は、誰かを必要とするより、必要とされる側のほうだ。妻も私に守らせてなどくれなかった。だから『守りたい』という理由《しlいわ!?》では傍《そば》にはいられなかった。官吏《かんり》として守られる側から守る側を選んでからは、なおさらそうなっただろうっ・Ll 「ええ。役に立ってません。今もお一人で頑張《がんば》ってますしね」 「良い顔をしているね。この先は言わなくてもいいみたいだね」 「はい。旦那様のお顔を見たら、自分の原点を思いだしましたから」 「それではこれをあげよう」邵可はいたずらっぽく微笑んで、懐《ふと二ろ》から一通の文を差しだした。 「自大将軍から預かっていてね。君が帰ってきたら必ず羽林《うりん》軍の配下として飲み会に出席せよとの仰《おお》せだ。一刻以内にこなかったら直々《じきじさ》にお迎《むか》えに来るそうだよ」ちょうどそのとき、門のところで自大将軍の 「頼《たの》もーう」という大声が聞こえてきた。他《はか》に  もがやがやと静蘭の名を呼ぶ同際《ご∴ノりょう》のへべれけ声がする。  静蘭は|目眩《め まい》がした。……あの破落戸《ゴロッキ》集団が精鋭近衛とは。 「……道場破りじゃないんですから……」 「お正月だからね。たまにはみんなと飲んでくるのもいいと思うよ。お酒を飲んで、愚痴《ノ、おり》をこぼすも良し、文句や不満を言って鬱憤《う 「ふん》を晴らすも良し。お悩《なや》み相談も聞いてくれるよ」 「はあ……あの酔《ょ》っぱらい軍団にお悩み相談ですか……一 「君は羽目を外さなすぎる。君ほもう一人でもないし、私と秀麗しかいないわけでもない。差しのべてくれる手がたくさんあること、今の君には何の伽《んり・り」》もないことを、どうか忘れないで。  秀麗と|一緒《いっしょ》に、君もこの箱庭から出たんだよ。もう|完璧《かんぺき》でなくとも許される世界にいることに、そろそろ気がつきなさい思いもかけぬことを言われて言葉を失った静蘭の背を、邵可はとんと押した。 「だから羽目を外すこともできる。君の帰る家は、いつだってここだよ。安心して自分のことだけ考えてきなさい。なんたって、君はそれがいちばん下手なんだからねl『ね、影月、幸せだね』   〓癖《′1ちぐせ》のようにそう言っていた人がいた。  しくしく泣いているとき以外は、いつだって笑っていたひと。 『約束だよ。悲しいとき以外はなるべく笑うこと。いつだって生きることをあきらめないこと。  後ろを振《ふ》り返らずに、前に進みなさい。……いつまでも、君を愛しているよ』  涙《なみだ》で視界がぼやけた。それでも必死に|笑顔《え C90がお》かべながら影月は『さよならLを告げた。  二度と会うことのない、この世の誰よりも愛する人へ。 「……げっ、影月、影月ってばよ」  肩《かた》を叩《たた》かれて、お茶を飲んでいた影月はハッと我に返った。 「うわっ、はい! す、すみません、ぼーっとしてました」 「いや|休憩《きゅうけい》どきだからいいんだけどさ。一人だから相当疲《っか》れてるだろ。なーんか無我の境地だ                                                                                                               J  ったぞ。慣れるまでは無理しなくていいから寝《a‘1》ろって」 「いえ、|大丈夫《だいじょうぶ》ですー!」  どこまでも『疲れた匹lJと言わない影月に、燕青はもはや|呆《あき》れを通りこして感心した。 「つたく……わかったぞ、お前末っ子に見えるけど実は長男だろ!」 「あはは、当たらずとも遠からずです一。最初は末で、次は一人っ子でしたから」  燕青は目を点にした。 「……最初は末で次は一人っ子って……なんだそりゃ?」 「僕、生まれたところでいっぺん家族に殺されかけて食べられかけたんですー」  あんまりにも笑顔であっけらかんと言われたので、燕青が飲みこむまでしばらくかかった。 「……な−なん、だって?」 「えっとですわー、もともと家族が食べるぶんだけで精一杯《せh∴∵? はh》だったのに、お城の王位争いで何もかもお役人様にもってかれて、食うや食わずでどうしようもなくなっちやって。僕、歳《レ」し》も体もいちばん小さくて何の役にも立たなかったから、両親や兄の『間引きL.対象になったんです。  子供は労働力のためだけに生むのが常識な村《レごし》でしたから、役立たずはすぐ間引かれるのが当たり前で。でもただ殺すんじゃ勿体《もつたい》ないから食べちゃえってことで、錠《なた》もった父に問答無用で殺されかけたんですよねー。あほは、お伽噺《とぎばなし》みたいでしょう?」�殺刃賊″に皆殺《みなごろ》しにされたとはいえ、それまでは裕福《ゆうふノ、》な家で両親兄弟と仲良く暮らしていた|記憶《き おく》しかない燕青には、想像もつかない『家族』だった。  絶句し、珍しく次の言葉が見つからずに|狼狽《ろうばい》える燕青に、影月は微笑んだ。 「ちょっと意地悪でしたわー。ごめんなさい燕青さん。でも本当にいーんです。それからの僕はですねー、悲しいことちょっぴり、幸せはめいっぱいでしたから」それでも落ち着かなげな様子の燕青にお茶を掩れてあげて、影月は窓を見上げた。黒州に繋《つな》がるこの青い日天《そ・り》の下、小さな小さな村の古ぼけた道寺《て・り》で、粟|擦《こす》れ一つ、羽ばたき一つ、遺はたで咲《さ》く一輪の花でにっこりと笑うひとがいた。 「……父に殺されかけて、死にかけていた僕を、たまたま通りかかった堂主様が助けてくださったんです。それから西華村に一緒に連れて帰ってくれて、そのあとは本当に幸せでしたよ」 「影月……」 「聞いてください。なんだか誰《だれ》かに、覚えていてほしくなったんですー」燕青はふと、その大人びた横顔に違和感《いわかん》を覚えた。そして気づく。……子供が大人になりたがるのではない。影月はもう、とうの苦に子供であることをやめたのだ。 「堂主様はですねー、ものすごく辺郡《へんげ》な西華村の水鏡遺寺でお医者をしていて。僕が言うのもアレなんですけど、どこまでも子供みたいな人でした。何かを愛するのがすごく大好きな人で、小鳥がさえずっても、風が梢を揺《ゆ》らしても、雨だれの音を聞いても、青い実を見ても……お米が底をついたって膠月《f′\》と一緒に山菜揺りに行く理由ができたねって、喜ぶような人でした。しくしく泣いている時以外は、僕、笑っている顔しか知りません」 「……お前そっくりじゃん」 「僕なんてまだまだ足下《∫lしもと》にも及《およ》びませんよー」  影月はなつかしむようにそっと瞑目《めしlもく》した。 「そんな堂主様が何より愛したのは 「「人』と 「生きるしことで−」  思いだす。世界に息づく何もかもを愛していた堂主様。  ¶ね、影月、生きてるといいことあるね。だって私は君と会えた。誰かを愛すると心がポッとあったかくなって、それだけで幸せだね。誰かが幸せだと私まで幸せだから、絶対私は死ぬまで幸せに決まってるね。だってね、小鳥が卵を産んだだけで私は幸せなんだからね』 「そんな、ありえないほどノホホンとした人でしたから、よく村の外からきた人に|騙《だま》されましたよー。高いお薬をタダでもってかれるなんてしょっちゅうで。それでも『あれで良くなるといいねー‥なんて笑って。お医者なんても受もと貧乏《げ′八げ・J》なものなのに……西華村の人たちの|優《やさ》しいご厚意がなくっちゃ、絶対僕と堂主様、餓死《ノ・・・し》してましたよー」影月を遥《はる》かに上回る人の一良さである。むしろ影月が常識人に見えるところがすごい。 「う、うーん……よく生きてこれたなその堂主様」 「別に堂主様は人の絶対の善意なんて信じてませんでしたけどー」  誰かに騙されることも裏切られることも知っていたけれど、人が誰かに優しくできることも信じ抜《再》くこともできる心も知っているから。 「もだから|尚更《なおさら》優しくされると幸せで嬉《うれ》しいんだよ。生きる埋由なんてそれだけで|充分《じゅうぶん》だよ.白人を愛する理由もね、と笑った堂主様。  ・子供のようで、けれど本当は何もかも知った上で世界を愛することを選んだ人。  影月は、『愛する』という言葉の本当の意味を、堂、王様と出会って知った。 「騙されても笑うのに、お金がなくてお菜を処方できなかったり、手を《l 「》尽くしても患者《わ人じや》さんが甲斐《み? .》なくお亡《左》くなりになったときは本当にぼろぼろ泣いてました。そしてまた顔を上げて、新しいお薬や治療《トリりよ∴ノ》法を考えはじめて−僕は、そんな人にずっと育ててもらったんです」満面の笑顔に、はじめて子供らしさがのぞいた。 「幸せじゃないわけないでしょう? 貧乏でも、ご飯が食べられなくても、堂主様が笑って手を引いてくれるだけで僕は幸せでした。堂主様にとって愛することが幸せなら、僕は堂主様のために在るのが幸せでした。でも……たくさん我値《わが喜∵よ》を言ってしまって」 「……お前がフ」 「ええ、もう、こんなに自分勝手だったんだなぁってくらい。情けないくらい甘えてー」一瞬《いつしゅん》よぎったのは、どこか泣きそうな|微笑《ほほえ》み。  燕背は空になった湯呑《ゆの》みを卓子《たlくし》に置いた。 「……いつごろお亡くなりになったんだフ」 「え?」 「え、つて……だってお前過去形で話してんじゃん」  影月は睦目《‥二1ノLく》し、そしてー笑い出した。 「……燕青さん、僕、村を出るときに約束をしたんです。いつだって笑って過ごすことと、限りある時を精一杯生きること。ということで、お仕事再開しましょう」 「な、なんじゃそりゃー!」 「秀麗さんたちも今頃頑張《い童ごろが人ば》ってらっしゃるんですしー。せっかく僕がお医者になるのを後回しにして国試を受けた甲斐が早々に出始めたんです。ここはガッツリいかないと」とっととお茶器を片づける影月に、燕青はふと首を傾《かL》げた。 「そいやなんで医者になるのやめて国試受けたんだ? L‥ 「別にやめてませんけど……。ただ、僕がお医者を目指しても単に一人お医者が増えるだけですけど、官《人り人り》吏になって偉《・え・り》くなったら、堂主様も僕も泣く回数が減る、と《ヽ》あ《ヽ》る《ヽ》可能性に気づいたんです。実は今回はその野望に至る最初の一歩なのですー」燕背は案件を思い返して、なんとなくその�野望』に見当がついた。 「最初の一歩にしちゃデカい案件《1.マ》だったけどな……。ビーしてっかな姉《!?め》さん……確か山越《やまご》えにや、工部攻略が最初の峠《♭ごリr》イつってたけど、尚書が悠舜と黄尚書の同期ってだけで超《らよう》難関が目に見えるってもんだぜ……しそうしてうまく話をすり替《ノ‘り》えられた燕背は、影月が堂主様だけでなく自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》も《ヽ》過《、》去《ヽ》形《ヽ》で《ヽ》話《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》ことに気づくことはなかった。                           ぎ         ! 祀           窮                                                          .造営′ 「お時間が取れず、紅州牧には誠に申し訳ないとの管尚書の仰《おお》せです」   十三回目の門前払《もんぜんば・り》いに、秀麗はにっこりと工部官に背《うなず》いた。 「わかりました。お忙《い・てバり》しいなか、ご無理を申し上げてこちらこそ申し訳ありませんでした」  しずしずとあっけなく退いた秀麗に、工都営はおやと目を丸くした。 「……|珍《めずら》しいな。昨日まで相当粘《ねば》ってたんだが。ま、どうせ粘っても無理なんだがな。なんてったってうちの尚書も侍即も、最後まで女官吏に反対してた人だしなー」  それにしても、と工部官は自分の袖《そで》をくんくんと嗅《か》ぎ、悲しそうに肩《かた》を落とした。 「……一張羅《thつらよう・り》なのにもう酒臭《くき》くなってら……オレ一滴も飲んでねーのに……」   両羽林軍大将軍と張る底なしの大酒飲み・工部の管尚書は、新年をいいことに仕事をしながら浴びるほど酒を呑《の》んだくれていた。尚書室にはゴロゴロ酒瓶酒樽《さかげんさかだる》が転がり、下戸の官吏などまず室に入っただけでぶっ|倒《たお》れる。どこの破落戸賭博《ブロッキとばく》場かと勘違《かんちが》いしそうなあの尚書室は工部官としてさすがに情けない。彼が工部尚書となって以来、工部に異動してきた官吏は管尚書と飲み比べをすることになり、下戸官吏の|恐怖《きょうふ》の的となっている。 「あれでなんで仕事はちゃんとできんだろ……?」   それだけが謎《なぞ》である。   そうして踵《1�げナ》を返した工部官を、物陰《ものかげ》からキラリと見つめる一対《いつつい》の日があった。 「あきらめるわけないでしょうが」   秀麗は過去 「二回の門前払いを思いだした。  ことごとく正規の手順を踏んで向かうも、 「忙しい」と朝から晩まで待ちぼうけを食ったのが七回白というか七日。酒好きを耳にして奮発して高い美酒をもっていったら酒だけ巻き上げられ、帰城登城を狙《ねら》おうと待ち伏《バ》せして無駄《むだ》に夜を明かしたこと二目。正月酒がなくなるまでは尚書室が工部尚書の寝床《h∵こ》と聞いたときには、十二回目の特攻《トlつ二∴ノ》に失敗していた。  戸部と礼部は、とっくに話を適すことができた。けれどいちばん重要な工部を攻略《こ∴ノりや′1》しないことにはなんの意味もない。  刻々と時だけが過ぎ、いまだ秀麗は工部尚書にも侍即にも会うことさえできないでいた。  悠舜の言葉は正しかった。秀麗の名なら取り次ぐまではしてくれたが、悠舜の名ではそれさえなしに門前払いをされた.。いや、正確に言うなら秀麗の名ではなく州牧という官位で取り次がれ、悠舜の名ではなく州封という皆位で門前払いを食ったのだ。その証拠《−)よ∴ノこ》に、工部官は悠舜                              く一▼一一の云女を見れば丁寧《−1し1し》に礼をとり、秀麗にはかなり適当な礼をとってくれた。 「……つまりは私自身がダメだしきれてるわけよね」  秀麗は袖から小さく折りたたんだ料紙をとりだし、ざっと広げた。 「……ここが工部尚書の執政室《しl−ノセいしっ》ね」  見取り図と現物を見比べながら見当をつける。 「正攻法《せいこうほ∴ノ》がダメなら、あとは強行|突破《とっぱ 》しかないわよね」  秀麗はぐいと袖をまくり上げた。   −このまますごすご帰るわけにはいかない。今の秀麗が否定されるということは、茶州府  全体が『話.にならない』と格印《.,.、.ヽパ》を押されたも同然なのだ。 「工部攻略まで茶州に帰れないっていうのは、そういうことよね、悠舜さん」   認めさせるまで、引き下がるわけにはいかなかった。         す胤漕ィ、輝再 『1いや、残念だが、余はいいh  相変わらずの縁談攻勢《えんだんこうせい》と書翰《しよカ人》の山に埋《う》もれてげっそりしながら、彼はこめかみを揉《も》んだ。 『見ればわかるだろう……まだ仕事が終わっていないのだ……』   はあ、と悲しそうに|溜息《ためいき》をついたその顔は、いつもと変わらなかった《ヽヽ11ヽ1ヽ1ヽヽヽ》。   まったくもって事実かつ見上げた王様魂だったので、縁故に否《いな》やがあろうはずはない。   ! けれど、どうやら自分たちは、別の言葉と行動を期待していたようだと、楸瑛る表情をけようしぬ  《お》享1∴�多分、自分も同じ顔をしているだろう。  見て自分の心を推し量る。   拍子抜けと、動揺と、戸惑いと、なぜという疑問とーほんの少しの不安の。 「−いない、んですか?」   邵可邸《てい》を|訪《おとず》れた絳攸と楸瑛はそろって|驚《おどろ》きの声を上げた。久々に両手にさげた包みの中には  山の売うに食材が入っている。  出迎《でもカ》えた邵可は、申し訳なさそうに細い目を伏せた。 「ええ、帰ってきた日はご近所さんなどに挨拶巡《あいさつlめぐ》りをしていたのですが、今は毎日のようにあちこち悠舜殿《ごの》と駆《ん》けずり回っておりまして……」 「郵州刀とフ」 「お仕事だそうですよ。まあ秀麗も里帰りLにきたわけではありませんからね」にこにこと笑《え》む邵可に、里帰り気分で訪ねてきた二人の青年は顔を赤らめた。  何の疑いもなく、いきなり訪ねても秀麗は以前と同じように笑顔で出迎えてくれて、もってきた食材でご馳走《ちそう》をつくってくれて、|一緒《いっしょ》に夕餉《時うげ》ができるものと思っていた。  lH−会えることを楽しみに、この邸《やしき》で待っていてくれると思っていた。  自分たちのなかでは、彼女は一人の少女のままなのだということを、思い知らされた。  二人は恥じ入り、深々と頭を下げた。 「そう……ですよね。申し訳ありません。軽率でした」 「今度は文を出すことにします。そういえば、静蘭も秀麗殿とっ⊥まっさきに邵可が出迎えてくれたことで楸瑛はそう当たりをつけたのだが、邵可ほおっとりと首を横に蔽った。 「いえ。白大将軍に強引《ごういん》に連れていかれたまま……なんだか戻《もご》ってこなくて」 「えっ、あ、そ、そうですか……それは……気の毒に……」  楸瑛は嫌《いや》なことを聞いてしまったというように顔を引きつらせた。  そういえば今の静蘭は右羽林軍に在籍《ぎいせき》ということになっていた。自分は藍家の用事で忙しいとかなんとか理由をつけて異大将軍から逃《.ゝ》げきったが、静蘭は一。 「あー……きっと、あと十日は戻ってこられませんね……」  毎年、何も知らない新人羽林軍兵が山のように|犠牲《ぎ せい》になる魔《ま》の宴。今頃《うたげい圭ごろ》羽林軍で使いものになるのは五人と残っていまい。正月を狙って反乱を起こせばまず|間違《ま ちが》いなく王にあしこ十歩のところまで一戦も交えず近づける。とはいえそこから先は、少なくとも通常より五倍は|戦闘《せんとう》力を増した両大将軍が控《ひか》えているために打ち止めになるだろうが。  司農寺からの苦情ののち、『出ねーなら欠席賃に酒寄越《よこ》せ』と白大将軍にむちゃくちゃなことを言われ、……藍家貴陽邸から相当の酒を横流ししたことを楸瑛は静蘭に心の中で謝った。 「秀膠も、お二人にとても会いたがっていましたよ。必ず帰る前に文を出して、お|暇《ひま》が合えばきちんとお会いしたいと言っていましたから−」経仮は目をつむった。……朝賀での、大人びた面差《おもぎ》しを思いだす。  一年も、経《た》っていないのに。 「……まったく、ずいぶん、成長した−」  思わずこぼした独り言を耳にして、邵可は|微笑《ほほえ》んだ。 「ふふ、あなたに遊びに帰ってきたと思われたくないから、と申しておりましたよ」 「え」 「そうでなくても、人一倍頑張《がんば》らないと、きっと認めてもらえないから、と−」 「——�」  不意をつかれ、思わず素《す》の顔で口をつぐんだ絳攸に、楸瑛は小さく笑った。 「師匠《ししょう》が厳しすぎるだけなのに、秀麗殿は本当に健気《けなげ》な頑張りやさんだねぇ」                                                 .−.J  絳攸はじろりと楸瑛を睨《�l》《−》んだが、これに関しては何も言わなかった。  食材の包みを卓子《たノ、し》の上に置きながら、ふと経仮は邵可を振り返った。 「……そういえば邵可様、ちょっとお伺《うかが》いしたいのですが」 「はい?」 「主上が、こっそりこちらにいらっしゃったとか、そういうことはありませんでしたか」 「いいえ、一度も」  それを聞いた楸瑛も、途端《し」たん》に|眉《まゆ》をひそめた。 「……なんだかおかしいと思われませんかフ」 「主上がですか? L 「……いつも通り仕事をしているんですよ?秀麗殿に会いにも行こうとせず」  ようやく合点《がてん》がいった邵可は、ほんの少し苦笑《′\しょう》を惨《にじ》ませた。 「なるほど」 「なんだか色々とためこんで|破裂《は れつ》寸前とかそういうことになってたり」 「そうですか?お二方にはい《ヽ》つ《ヽ》も《ヽ》通《ヽ》り《ヽ》に見えるのでほっ・」  縁故と楸瑛は顔を見合わせ、渋々《しぷしぷ》ながら背いた。  別段苛々《いらいら》したりピリピリすることもなく、表情豊かに仕事の多さにぶつぶつと文句をこぼし、�超梅干し″事件をこえる気合い入りまくりな重臣たちの縁談攻勢から逃げまわって机案《つくえ》の下にもぐりこみ、そのままコックリ舟《ふね》を漕《こ》いで絳攸に怒《おこ》られたりするのもしょっちゅうだ。  健気に疲労《ひろう》を押し隠《かく》すわけでもなく 「余は疲《つか》れたー」と堂々と公言、そろそろお茶にしようと絳攸を泣き落としにかかるもしばしば失敗。このごろは白木の筍《しや′\》で締牧に遠慮《えんりょ》なく頭をしぼかれたりもして、ますますどっちが臣下かわからない。必要な|休憩《きゅうけい》はとっているし、邵可に会いに府庫にも行っている。楸瑛や宋太博と剣稽古《けんげいこ》もして発散している。  1秀腰以外のことは、まったくもって何ら変わりがないのだ。  しかし、いちばん違和感《いわかん》がくるのはまさにその点なのである。 「府庫にもいらっしゃいますが、主上は別に何もおかしくはありませんよ。私《ヽ》た《ヽ》ち《ヽ》に《ヽ》と《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》、主上はいつも通りの主トのままなのですから」それでも|納得《なっとく》できないような二人の様子に、邵可は細い目をそっと伏せた。 「それでも、どこか違和感をお持ちになるのは……あなたがたが、直接お触《ふ》れになることこそないものの、目にしているものがあるからだと思いますよ」きょとんと目をまたたく二人の青年に、邵可は今度こそ本当に苦笑した。……無意識でのことだ。彼らがそのことに気づくには時間がかかるだろう。そして気づいても、この二人がそれを越えることはあるまい。−教えることに意味はないのだ。 『秀麗が、帰ってくるのだ』  あのとき、いつものように府庫にやってきた王が、こてんと卓子に頬《ほお》をつけて囁《ささや》いた、小さな小さな独自は、いかなこの二人でも、どうすることもできはしない。邵可にでもだ。  それを可能とするのは、今やもう、たった一人になってしまった。 「……経倣殿、藍将軍」 「はい?」 「なんでしょう」 「主上のお名前を、覚えていらっしゃいますかフ」  |妙《みょう》なことを訊《き》かれると首を傾《かし》げながら、縁故は生|真面目《まじめ》に答えた。 「紫�劉輝陛下……でしょう?」  邵可は、どこか|寂《さび》しそうに微笑んだ。  二人の青年を見送ったのち、邵可は王の|呟《つぶや》きを思いだしていた。  彼らの懸念《けねん》のもとーどうして土が一目散に秀麗に会いに来ないのかという理由が、邵可にはわかっていた。来ないのではなく、来ることができないその理由。 「……それほどに、劉輝様は−」 「だからなんだというんです?」  不意に聞こえた弟の声にも、邵可は驚かなかった。   問答無用に家宅侵入《しんにゅう》してきた黎深は、苛立《い・りバ左》たしげに音を立てて扇《おうぎ》を閉じた。          ヽ   ヽ   ヽ        ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ 「それが、王でしょう」 「……割り切れるものでほないんだよ。一度知ってしまったら、|尚更《なおさら》ね」  黎深は無言で、手にしていた包みを卓子の上に置いた。中からのぞくのは、儀《ぎ》をただして相手に文を送る時に使う正式な仕様の、細工文箱の山。                                 ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ 「−全部、少しは目端の利く貴族高官たちから秀麗への見合い話です」 「……きたか」  邵可は|驚《おどろ》くことなく、ただ静かにそう呟いた。         勅命藩命鎗 「今日もまた追い返しなさったそうですねぇ」   工部尚書室に入室してきた副官は、こもる酒気にまずムッと眉をひそめ、次いで片膝立てて|行儀《ぎょうぎ》悪く、しかも適当そうに筆をすべらせている上司にいかにも嫌気《いやけ》が差した顔つきになった(林立−というかもはや森立《1ヽ》する酒瓶酒樽《さかぴんきかだる》はもう見慣れすぎてなんとも思わない。 「けっ、たりめーだ。こちとらガキのお遊びに付き合ってる|暇《ひま》なんざねーんだよ。おい陽玉」《ようぎよく》 「誰《だれ》の名前ですかそれは。私の姓《せい》は欧陽《おうよう》、名は玉だと何度言わせるんですこの鶏頭。《とりあたま》いい加減、勝手に人の名前を妙な風に区切らないでください。欧陽家は由緒《ゆいしょ》正しい名門なんですからね。  大体あなたになれなれしく名を呼ばれたくはありません」 「ざけんじゃねぇ。てめーの名前のほうがおかしーんだよ。|普通《ふ つう》はオウ・ヨウギョクに決まってんだろ。欧陽侍郎《じろう》なんて長すぎて字面《じづ・り》もかっこわりうてんだよパーカ。誰が呼ぶか。だいたい陽玉のはうがずっとかっちょえー名前だろうが。改名しろよ。奇人みてーによ」換気《かんき》のために半蔀《はじとみ》をあけていた欧陽侍即は、批《ま左じり》をつりあげて上司を脱みつけた。 「いくら同期とはいえ、あの御方《おかた》をなれなれしく呼び捨てにしないでください。くっ……なんだって私があなたみたいな酔《よ》いどれ尚書の紺佐《一モ.一さ》なんかにならなきゃならなかったんですか。私だって黄尚書が上司なら喜んでお仕えしましたとも。あのかたの仰《おお》せならば陽玉にでもなんでも改名いたしましたよ。あの麗《うろわ》しいご尊顔を称《たた》えて何千遍《へん》だって詩を|捧《ささ》げるという蓄薇色《ば・りいろ》の毎日が送れたというのに……なぜよりにもよってこの酔っぱらいにこの私が!」管尚書は瓶子《とつ/、り》に直接日を付けながら、空いている手で仕事を処理していく。 「お互《たが》い様だってんだよ。オレだっててめーみてぇなチャラ男《お》が副官なんざ|冗談《じょうだん》じゃねぇ。つたく紅黎深のクソ野郎《やろう》、ふざけたことしやがって∵…。本逓ずれたな。おう、そのじゃらじゃら耳やら腕《うで》やらにくっつけてる石の一つでも売っ払《はら》って、オレに酒代貸してくれや」 「それこそふざけんじゃありませんよ! 配下にタカるなんて恥《ま》ずかしくないんですか!」 「てめーにしかタカってねぇよ。てめ、オレの副官だろ。オレを助けんのがシゴトだろ」 「金貸しが仕事でもありませんよ! だいたい返ってきたためしがないじゃありませんか。そぅいうのを|庶民《しょみん》の言葉でカツアゲというそうですよ! こんのカツアゲ尚書……公費を酒代に使いこんだら即《そく》バラして退官させますからね! 首を末期《まつ一−》の酒で洗って待ってなさい!」 「けけけ。うまいこと言うじゃわーか。そりゃあ本望だな」   六部一仲の悪い尚書と侍郎として有名な二人は、向かい合ってバチバチと火花を散らした。                                                                                                                  .ノ  そのため、先ほど欧陽侍郎がひらいた半蔀から手が《▼》突き出たことに気づかなかった。   最初に気づいたのは管尚書のほうだった。 「……んん? おい陽玉」 「玉です!」 「お前、あの手が見えるか」 「恨あ? どれくらいの滴は空と思ってるんです。そんなもの−」   振り返った欧陽侍郎は硬直した。   細い腕がとっかかりをさがすようにペ夕べタと窓の内側をさまよったかと思うと、黒い頭がひょこっと突き出し、最後は足が生えた。 「くっ……ぐぐぐ」  ′  片手片足をしっかり窓の内側に固定すると、今度はもう片方の手が伸《の》び、勢いよく上半身が!?突難鱒絹針醐縞っ精銅翻踊最当た。  ▼l 「うぎゃっ! く……は、鼻打った……」   まごうことなき女の声と�男とは異なる官服を目にして、管尚書の目が細くなった。  ぐい、と瓶子《とつくり》に残っていた酒をいちどきに飲み干すと、後ろに放り投げる。  乱暴な音を立てて、瓶子が床に転がった。 「……よぉ、お嬢《じょう》ちゃん。何しにきやがった」  凄味《すごみ》のある声に負けないよう、鼻を押さえながら秀麗はぐっと顔を上げた。       ・報土曝・  羽林軍に酒を横流ししたことで罪悪感を覚えた楸瑛ほ、魔《ま》の宴を様子見することにした。  宮城の一角−羽林軍用官舎に一人足を向けた楸瑛は、すでに入り口前で配下たちが累々《るいるい》と『討《う》ち死にhしている|地獄《じ ごく》絵図を見た瞬間、《しゅ人かん》官舎に入らず|踵《きびす》を返した。が——。  瞬間、楸瑛は殺気を感じて反射的に飛び退《の》いた。うなりを上げた風切り音とともに、たった今まで立っていたまさにその場所に剛槍《ごうそう》が突き刺《さ》さり、柄《つか》の中ほどまで〓気にめりこむ。 「……よーやくきやがったな楸瑛。逃《に》がさわーぜぇフ」  自大将軍の声に、楸瑛ほ一転してすかさず剣《け人》を抜《ぬ》きー三十六計逃《ー》げるにしかずを迷わず実行した。が、恐《おそ》ろしいほどの正確さで官舎から矢が連射され、次々と逃げ場を削《けず》られていく。  そして気づいた時にはいつのまにか大将軍二人に挟《はさ》み撃《う》ちにされていた。  直属の上司である黒大将軍は常と変わらず無口無表情だったが、副官を務める楸瑛には魔の宴からまんまとトンズラした副官《みでヽフで》に対する紛《まぎ》れもない殺気がビシバシ感じられた。   しかも、あの正確無比な弓矢はいまだ尽《′メ》きずに官舎から飛んでくる。   |隙《すき》を見せぬよう構えつつも、射手は誰かと官舎を仰《あお》いだ楸瑛は死にたくなった。 「くっくっく。あの自称《じしょう》二十三歳野郎の弓術の腕前《うでまえ》はよぉっくわかってるよなぁ?」   ー楸瑛は妙な情け心は二度と出すまいと心に|誓《ちか》ったのだった。    ー一方、楸瑛と別れて紅邸《てい》に戻《もど》った絳攸は自分宛《あて》に届いていた書簡に驚いた。 「……玖娘様が俺に会いに?」   あまり会う機会もなく、一見して少し冷たい印象もあるが、玖項は最初から絳攸を紅一族として認めてくれた数少ない人だった。折々に養い親と自分の近況《さんきょう》を知らせる文を送れば、必ず返事をくれた。素っ気なく見える文面にも、いつもひと言、気遣《1、.つか》う言葉があった。   ゆえに玖娘に対しても絳攸は敬意相混じる好意をもっていたのだが、いかんせん養い親は紅家当主に就かされた《ヽヽヽヽヽ》ことを根にもっている。玖娘を毛嫌《けぎら》いしている黎深の手前、毎年貴陽にくる彼に堂々と|挨拶《あいさつ》に行くこともできなかったので、今回の訪問は嬉《うれ》しかった。 「……しかし、何の用事でいらっしゃるんだ?」  慌《あわ》てて離《はな》れを用意させながら、まったく見当がつかずに絳攸はパテと首を傾げたのだった。  !?畢甘困瀞.恩川風.凧心.、サ一十.バ一冊‖パパ..出頭                                                               r′す一rlノ 「なんと、ここまで何の役にも立たない美《▼−》貌《1.−》というものを拝見したのは生まれて初めてです」仮面の下から現れた顔に、柴凛は心から感心した。 「旦那《だんな》様からお話を伺《うかが》って以来、お会いする機会があればぜひ一儲《けともう》けに有効利用させて頂こうと密《ひそ》かに画策しておりましたが、潔くあきらめましょう。これではまるで役に立ちません」柴凛の手を惰りて|椅子《いす》に座った鄭悠舜ほ、妻の言葉に舌を傾《かし》げた。 「おや、なぜですか、凛?ここにくるまでほあれほど両師や彫物師《ほnリものし》を呼んで創造意欲を|刺激《し げき》させて、素晴らしい作品をなどと色々計画していたではありませんか。歳《J」し》をとって少しは落ち着いたかと思えば、何やらますます磨《みが》きがかかっておりますし……」きちんと面会の手続きを踏《ふ》んで戸部を|訪《おとず》れた郵悠舜・柴凛夫妻は、当の本人を目の前にしつつ、そっちのけて会話をした。 「そう考えておりましたが……これではとても無理です。芸術家であればこそ、まったく仕事にならないでしょう。日がな見惚《みと》れて絵姿を写す前に寿命が《じゆみょう》きてしまうでしょうし、なんとか仕上げたにせよ、千分の一も表せておらぬと創作物をことごとく破棄《はき》、下手をすれば自らの無能さに絶望して命を絶つ者もでてしまいますよ。そういった類《たぐい》の『冥士《めいど》の土産《みや。げ》にするしかない無駄|美貌《び ぼう》』ですこれは。むしろこちらの仮面のほうをよほど譲《ゆず》っていただきたいですね。僧越《せんえつ》ながら当代一の彫物師、雅旬《がじゅん》の|傑作《けっさく》と拝見いたしました。個人的に仮面をつくっていただけるほどの伝手《つて》をおもちなら、ぜひ|紹介《しょうかい》していただきたい」熱心に卓子《たくし》に置かれた仮面を見つめる柴凛に、景侍郎がついにこらえきれずに吹きだした。 「確かに冥土のお土産にはぴったりですよねぇ。死んでも忘れられませんから。それにしても鳳珠《ほうじゆ》の素顔《すがお》を見て仮面のほうに興味を示されたかたほ初めてですよ。芸術家でなくとも、たいていよくて十日は魂塊《こんばく》が戻ってこないのですけれど。さすが邸官吏《かんり》の奥方ですね」柴藻は諷爽《さつそう》と笑《え》みを閃《ひらめ》かせた。 「この世でいちばんのかたは錨《いかり》を打つごとく心に決まっておりますので。確かに非常に驚嘆《さようたん》かつ稀《よれ》な逸品《いっぴん》に感嘆いたしますが、悠舜殿《どの》より私の心を揺《ゆ》さぶることはないというだけです」仮面以下と言われた無駄美貌の持ち主は堂々とした惚気《のろけ》に|呆《あき》れると同時に安堵《あんど》もした。このぶんなら悠舜の不自由な体などなんの障害にもなるまい。結婚《けっこん》の報《しらせ》を聞いて少々心配していたのだが、自分や、興味を示した仮面からもあっさり視線を外し、足が冷えないようにと悠舜の|膝《ひざ》に毛織りの布を広げはじめた柴凍を見れば杷憂《きゅう一》のひと言で終わらせられる。  想像していた『奥方hとはだいぶ違《ちが》っていたが−。  麗々しい美貌に少しの苦笑《くしょう》と、心からの喜びをこめて、奇人は旧友に祝福を贈《おく》った。 「……改めて結婚のお祝いを言っておこう。祝儀《しゅうぎ》の一つとしてこの仮面は進呈《しんてい》する」  悠舜は|優《やさ》しげな顔いっぱいに、とろけるような笑顔を|浮《う》かべた。 「ありがとう。ふふ、羨《う・りや》ましいですか〜鳳珠」 「別に」  素っ気ない返事に、悠舜は仮面を取り上げ、つくづく深い|溜息《ためいき》をついた。 「……黎深を任せられる人は後にも先にも百合姫《ゆりひめ》だけですが……あのときは百合姫はどのかたは稀とはいえ、あなたなら他《はか》にいくらでもお嫁《よめ》さんの来手があると思ったのですけれどね……。こんな、、、ナ、、、ボラボラ烏がつぶれたようなお面をかぶるようになってしまって……」  その瞬間、景侍郎は絶対零度《れいご》の殺気で凍死《とうし》するかと本気で思った。 「悠舜……仕《ヽ》事《ヽ》の話できたのだろう?」 「ええ。元気そうで安心しました。会えるのをとても楽しみにしていたのですよ、鳳珠。何年経《た》っても私の足を気遣って出迎《でむか》えてくれる友人がいて、私は本当に幸せですね」不意打ちを食らって怒気《どき》の|矛先《ほこさき》をなくした奇人は、|珍《めずら》しく素で詰《つ》まった。  悠舜はにっこりと|微笑《ほほえ》み、久方ぶりの友人の反応を楽しんだ。 「さて、ではお仕事の話に入らせて頂きましょうか」  |絶妙《ぜつみょう》の間合いに、見ていた景侍即はほとほと感心した。ここまで黄奇人をいいように手玉にとり、|反撃《はんげき》前にあっさり自分の陣地《じんち》に引きずりこんでしまう人を初めて見た。  百戦錬磨《れんま》の黄奇人より上を行く駆《か》け引き上手など、景侍郎は片手の指も知らない。  人手不足でいまだ空位だが、くせ者ぞろいの六部尚書を束ねられるのはもしかしたら−。 「景侍即、わざわざ来て下さり、ありがとうございます。概算《がいきん》が出たと伺ったのですが……」やわらかな声に、景侍郎ほハッと我に返った。 「あ、ええ、なんとか。本当に、おおよそなんですけれども」  慌てて手にした書翰《しよかん》をさぐりながら、景侍郎は思い出し笑いをした。 「いきなり秀くんが私を訪ねていらしたときは本当にびっくりしましたけれど……まさかいきなり『お仕事』のお話をされるとは思いませんでした」『黄尚書がお忙《いそが》しいことは重々承知していますので、よろしければまず景侍即に』と丁寧《ていねい》に頭を下げた彼女に、何やら感慨《かんがい》深いものを感じて、思わずじーんとしたものだ。 「一時はお恥《lTゅ》ずかしながら私の養子にとまで思ったこともありましたが……ふふ、今の秀くんは私より官位が上になってしまって。なんだか不思議な気分です」 「今だけのことだ」奇人はすげなく言い捨てた。 「茶州が落ち着いたとわかれば、一気に官位を下げることになろう。理由があったからこそ、あの特別処置は甘受《かんじゆ》されたのだからな。それに経験の有無《うむ》は決して軽《かろ》んじるべきでほない。重責を担《にな》う官位ならばなおさらだ。たとえどんなに良い補佐《はさ》がいようともな」視線を受けて、悠舜は小さく苦笑した。 「だからこそ、それまで《ヽヽヽヽ》の間で何を為《な》したかがより重要になってくるのですよ」 「短期間での茶州平定だけでは満足しないわけだな」  景侍即を介《カし》して奇人も秀麗の『要請《よ∴ノせい》h内容を知っている。秀麗と悠舜が今回の貴陽詣《もう》でで、とっかかりをつかもうとしている案件を頭に置き、奇人は軽く顎《あご》に手を当てた。 「……それにしても、茶家の一件から短期間でよくここまで詰めたな。いや…そうか、前から燕青やお前が骨子を組み立てていたのか?」 「いいえ、発案は二人の上司ですよ」にっこりと微笑む悠舜に、奇人と景侍郎ほ呆気《あ.つl!?》にとられた。 「……あの二人が、あれをフ」 「ええ。勿論《もらろん》実現可能なように突貫《と 「lかん》で煮詰《にlリ》めたのは州官たちですけれどね」  ほのぼのとした口調からは、詰めと引き換《か》えに離れ小島《、、、1》で最後の一滴まで精気を絞《しぼ》り尽くして干物同然となった州営たちの姿も、にこやかにそれを強制した鬼畜《き←りーく》州事の姿も浮かびあがらない。そんな屍累々《しかばねろ∴るい》な州城をあとにしてきた柴凛だけは思わず一人視線をずらした。  しかし政事に関する悠舜を知っている黄奇人は、柴壇の仕草でほぼ正確に内情を看破した。 「……ず、ずいぶん急いだな。来年でも支障はないだろう」 「せっかく大権を動かせる官位を頂いたのですから、これからも厳しい道を歩むお二人に、次《ヽ》の《ヽ》辞令《ヽヽ》までにできる限り目に見える形での実績を付与《ふよ》して差し上げたいと、州営一同そう思ったのですよ。茶州平定が目的で派遣《はけん》されたのですから、揚《あ》げ足をとれば秀麗殿たちの加算評価にはなりえません」奇人ほ口角を上げて麗《うるわ》しい顔に笑みを浮かべた。 「またずいぶんと、入れ込んだものだな〜」 「あのお二人は、茶州府にとってそれだけの価値があります。十年越《ご》しの待ち人ですから」  奇人は思わず口許《くちもと》をおさえ、恥じ入るように芸術品のごとき長い陵毛《まつげ》を伏《ふ》せた。 「……不用意なことを言った。すまない」 「はい、よくできました。さて景侍郎、算出して頂いた概算はどのような感じでしょうか?」 「あ、ええ。その……L景侍即は躊躇《ためら》うように柴凛に視線を向けたが、柴凍は席を立たなかった。 「戸惑《とまご》われるかと思いますが、悠舜殿が私を同伴《ごうはん》したことにも少々理由があるのです。事情はあとでご説明いたしますので、どうか同席をお許し下さい。|誓《ちか》って他言は致《いた》しません」悠舜と上司の無言の|承諾《しょうだく》を受けて、景侍郎ほ秀麗から頼《たの》まれたことの結果を伝えた。 「端的《たんてき》に申せば、やはり、だいぶ、かかってしまいますね……」  景侍即は書輪を卓子に広げて見せた。おおよその金額が項目《こうもl′1》別に記されていたが、その額に日頃《ひごろ》大金を見慣れている奇人も眉根《まゆね》を寄せた。 「……これはどう考えても全部予算では落ちぬな」  しかし当の悠舜と柴凛は予想の範囲《はんい》内であったようにさして色を変えなかった。 「景侍郎、これはどこを基準として出された概算ですか7回子学ですか、大学ですか、それとも四門学でしょうか?」 「四門学です。しかも最低限必要なものだけに絞って出した概算です。建築費用及《およ》び調度費用などは|一切《いっさい》入っていません。確か魯尚書からは、そのとき《ヽヽヽヽ》まで礼部尚書を任官していたら学士・博士に関してある程度の融通《ゆうずう》はきかせられる、とのお返事を頂けたのですよね? よって、とりあえず学生五十人、博士十人での概算をだしました。入学費、教本、筆記具、しかもある程度の生活費も援助《えん.1じょ》ということになりますと……教授や博士への禄《ろく》もありますし、まるで利益がでないのでは……。州費で賄《まかな》える額ではありませんよ」 「ええ、それでなくとも茶州は貧乏《ぴんぼう》ですからね。もとより両州牧は端《はな》から|普通《ふ つう》の学舎《圭なげや》にする気ではないのはお聞き及びでしょう? もともと茶州を底上げするための両州牧の発案です。利益がでないとはとんでもございません。うまく|軌道《き どう》に乗れば、意図せずに資金が循環《じゅんかん》します」奇人はさぐるように切れ長の双畔《そ∴ノぼう》を友人に向けた。 「だがそもそもの元手が賄えぬと言っているのだ。戸部尚書として言わせてもらえば、どんな理由があれこの金額全部を公費で落とすことは認められない」 「ですからそのために私が貴陽まで来たのです、奇人殿《どの》。私の職業はご存じですね?」柴凍の言葉に、奇人と景侍郎ほそろって睦目《ゾ」・フもく》した。 「……まさか、全商連に出させる気か。そんな話は聞いたことがない」 「そうですね。幹部連の説得はたやすくないでしょう。ですが秀麗殿の特製�智恵彩花《えんおうきいか》″木簡と同じと考えればよろしいのですよ。見返りがあれば、全商連は乗りだします」 「だが、あれほ七彩夜光塗料《とりょう》の製造法及び派生権利の獲得《人�くと・、》という既存《さぞん》の実益が確実に目前にあったからだろう。これはまだ海のものとも山のものともしれぬ案件だ。金を溝《ごぷ》に捨てる公算も高いものを、全商連が出すのか? 益が出るにしてもそれまで年単位かかるのは必至だ」 「——見くびらないで頂きたい」  柴藻は真っ向から奇人の|美貌《び ぼう》を冷ややかに見据《みす》えた。 「商売というのは、まず三年は利益が出ないことを|覚悟《かくご 》するものです。まして本物の商人ならば|尚更《なおさら》『待つ』ことの重要さを知っております。益と知ればそれ相応の下準備をし、慎重《しんらよう》に時をかけて腰《こし》を据え、じっくり機を計り、確実に仕留めるのが大商人です。それまでどれほどの資金と時間がかかろうが、獲物《えもの》の価値が遥《はる》かに上回るなら躊躇《ちゅうちょ》する理由などありません。目先の子ウサギに惑《まど》わされて大物を逃《のが》すような小粒《こつぷ》の商人は全商連にはおりませんよ」一瞬《いつしゅん》ではあったが、柴凍の気迫《きはく》に呑《の》まれた奇人を見て、悠舜は小さく笑った。 「政事と同じですよ、鳳珠。先を見据え、大計を立てて無駄《むだ》なく動く−大商人はいわば凄腕《すごうで》の大官なのです。全商連以外に長期的な視野と大博打に打って出る|冒険《ぼうけん》心を持つ大商人はいないでしょう。さて鳳珠、あなたが案件の諾否《だくけ》を決裁するときに|鍵《かぎ》となるものはなんですか?」 「……情報量の多きと、それから導き出される公算性が、ある一線を越《▼〕》えることだ」針の穴に糸を通すようなことでも、通るとわかったら即決《そつけつ》する戸部尚書。あらゆる可能性を考慮《こうりよ》した結果の判断力には誰《だれ》もが一目置くところだ。彼が可能と言ったらどんな難事でも可能なのであり、不可能というなら絶対不可能なのである。 「だがこれほどの大金が動くとなれば……利に聡《皇eと》いぶん全商連の一《ヽ》線《ヽ》は相当厳しいはずだ」  全商連茶州支部長ほ、卓子に広げられた書翰を指で叩《たた》いた。 「その通りです。だからこそ、幹部連に乗りこむ前に紅州牧にこうして連日駆け回って頂き、せっせと有利な手札を集めてもらっているのですよ。私の見立てではこの金額もあと三割は細《す∴√》ってみせます。それでも残念ながら発展途上《レし‥しょう》の茶州全商連だけでは賄いされぬ額ですから、なんとしても幹部連に一枚噛《■り》んで頂かねはなりません」 「……不可能、ではないかもしれません」それまで|黙《だま》っていた景侍郎からは、いつもの|穏《おだ》やかな顔は消えて無表情に近くなっている。  奇人の正確無比な判断力は、補佐が取捨選択《せんたく》してあげてくる情報があってのことだ。  景侍郎もまた、誰もが認める一流の能吏《のうり》だった。 「確かに……うまくこの案が軌道に乗れば、永続的な金脈を|発掘《はっくつ》したことと同意になる可能性はあります。そこに先んじて乗り込み、権利を獲得することの益は全商連ならば|充分《じゅうぶん》算出できるはず……ただ、前提条件として礼部の博士・学士の確約よりもさらに重要なのは−」 「ええ。秀麗殿は工部を|攻略《こうりゃく》すべく今日も悪戦苦闘《くと・リ》しておりますよ」悠舜は柴凍と意味ありげに視線を見交《みか》わすと、にっこりと笑った。 「ですので、私も上司に負けないよう頑張《ポんげ》らなくてはなりません。今いただいた景侍即の案を早急に茶詰めるべく、半日ほど戸部の資料室をお貸し頂く許可をくださいね」         墨薄命串・ 「−話を聞いてくださいってば!」 「おう陽玉、これどうなってやがんだ。こんな予算あげたら奇人に殴《なぐ》り込まれるぜ」 「鶏頭が偉《えら》そうになんですか。ちょっとお貸しなさい」  何を言っても|完璧《かんぺき》な無視をされつづけ、秀麗はぶるぶると震《ふる》えた。 (くっ、落ち着くのよ。とりあえず会えて言葉を交わせただけでも進歩だわ)  たとえそれが 「とっとと帰れ」のひと言であったとしても。  秀麗は酒瓶酒樽《さかげんさかだる》の山をどけ、どっかと床《ゆか》に−|礼儀《れいぎ 》正しく正座で−腰を落ち着けた。  じっと工部尚書と侍郎を眺《なが》める。……これまた、実に対照的な二人である。 (……十六衛大将軍とこだわりをもつ尚服官て感じ……)  管尚書は貴族の子弟も多い精鋭《せいえい》羽林軍よりは、叩き上げぞろいの十六衛を束ねているほうがしっくりくる印象で、欧陽侍即を 「龍蓮をマシにした感じ」と評しなかったのは、ずばりジャラジャラ色々くっつけていても実によく似合っていたからだ。美的感覚は比べものにならない。  後宮時代、王の衣裳《いしょう》だけでなく、自身もバッチリ装《よそお》っていた尚服官たちを思いださせる。 「これのどこがおかしいんです! 実に妥当《だとう》な額面じゃないですか。いっときますがあなたの一年分の酒代のほうがよっぽど高いですよこの酔《よ》いどれ尚書!」 「ざけんじゃねぇ。そんじゃ一から十までオレにわかるようにきっちり説明しろや。たかが橋の修理費用にこんなにかかってたまるかよ。オレの酒代に回した方がよっぽどマシだぜ」 「ただの橋じゃないんですよッ。この心血注いだ古の工匠《いにしえこうしょう》の志を理解せぬこの凡愚《ぼんぐ》めが!」 「けっ、ここじゃオレが法だぜ。てめ、工匠に肩入《かたい》れしすぎなんだよ。いいから説明しろや」  −しかも、ものすごく仲が悪い。  とはいえ、一時期戸部尚書のもとで働いていた秀麗の目は、喧嘩《けんか》をしながらも二人が恐《おそ》るべき速さで仕事を処理していくのをしっかりとらえていた。 (すごい……喧嘩しながら問題点をはっきりさせて瞬時に煮詰《につ》めるから即決できるんだ)  戸部は人手が足りなかったため、黄尚書と景侍郎の個人裁量に頼《たよ》ることも多く、一人が一つの荷物をもつ方式で負担がかかっていたが、工部はなんだかんだ言いながら結果的に二人で一つの荷物をもっている。これは速いうえに、出した結論に自信と信頼《しん・りい》がもてる。 「この破落戸《ゴロッキ》尚書! 呑んだくれて川に落ちたらいいんですよ!」 「チャラ男《お》がナマ言ってんじゃねぇ! おう酒の川なら喜んで落ちてやらあ!」  ……やはり、仲は悪いようであるが。  秀麗は興味深く仕事を見守りつつ、反省もした。十三回も門前払《ぱら》いされたとはいえ、いきなり押しかけて忙《いそが》しい仕事の|邪魔《じゃま 》をしてしまったことには変わりない。 (こうなったらとことん待ってやるわ)  第一線でバリバリ働く大官たちの仕事ぶりも間近で見ることができるのだ。  まだ日は充分高かったが、仕事が終わるまで秀度は腰を据える覚悟を決めた。  そうして、日もすっかり落ちきったころ。 「……あーやれやれ、ようやくこれで浴びるほど酒が呑めるぜ」  すべての書翰《しよかん》を完全決裁し終えると、管尚書は|行儀《ぎょうぎ》悪く机案《つくえ》に組んだ両足を投げ出した。 「仕事中も浴びるほど呑んでたでしょうが。まったくあなたの繍佐《一lさ》になってからというもの、せっかく風情《ふぜい》ある香《こう》を娃《た》きしめてもすぐに酒気と混じって台無しじゃありませんか!」 「酒買わねーで呑んだ気分になれんだぜ。いーじゃねぇか。感謝しろい」 「うっさいんですよ! まるで話になりません!」丸一日死闘《し,こう》を繰《く》り広げたせいか、欧陽侍郎の口調もすっかり悪くなっている。  そして初めて、欧陽侍即は秀麗のほうを向いた。 「あなたもお帰りなさい。女性が夜遅《おそ》くお帰りになるのは危険ですし、感心いたしませんね。座りこんで頂いても、何も——ー……」  欧陽侍郎は、きちんとお茶を頂いている秀麗の姿に気づいて沈黙《ちん一Uく》した。 「……ずいぶんと、くつろいでおりますね」 「あ、一応、お断りはしたんですけど、勝手にすみません」 「茶器などという高尚《●−うしよ、ブ》なものがこの室にまだ存在していたのですか」 「攻《はこnソ》をかぶっていたので、発掘させて頂きました。よ湾しかったらお掩《し》れしますけれど」  欧陽侍郎は秀麗を見つめた。……無視されつづけた怒《�■り》りや不満の欠片《かけら》もない。それどころか、なんだか肩《かた》の力がすっかり抜《ぬ》けて|妙《みょう》に楽しそうである。 「……では一杯《いっぱい》頂きましょうか」  喧嘩しっぱなしで喉《のど》が渇《かわ》いていたことと、酒の|匂《にお》いをかきわけてたちのぼるお茶の香《かお》りが非常に新鮮《しんせん》だったので、欧陽侍郎は酒瓶をどかして秀麗の隣《となり》に腰を下ろした。  管尚書は別段文句を言うわけでも追い出すわけでもなく、新しく開けた酒をあおりながら、さして興味もなさそうに二人を眺めていた。  漂う爽《ただよさわ》やかな香りに、欧陽侍郎ほ生き返ったように|溜息《ためいき》をついた。 「……ところで、楽しそうなお顔の理由をお聞きしてもよろしいですか」 「あ、実際楽しかったですから。すごく勉強になりました。ところで欧陽侍即は、もしかしなくても私が気に食わないですね? L 「ええ」あっさり言われても、彼の一日の仕事ぶりを見ていた秀麗はまったく腹が立たなかった。  二人に話を聞いてもらえないのも、気に食わないと思われるのも仕方がないと思った。 「でも私もすごすご引き下がるわけにはいかないので」  秀魔は立ちあがると、管尚書の机案の前に立った。  ぐびぐびと酒を呑みながら、管尚書はひらひらと蝿《はえ》を追いやるように手を振った。 「管尚書」 「帰れ」 「こないだ私が差し上げた賄賂《わいろ》のお酒一本ぶん、ひと言だけ私の話を聞いてください」                                                                                                                         hr   ちろり、と管尚書の目が秀麗に向けられた。わずかに興味の光が揺《Hr−》れた。 「ひと言か」 「ええ」 「いーだろ。あの酒一本ぶん、ひと言だけなら聞いてやる」   秀麗は、彼らと対等に話をする者と認められていない。   知識も経験もなく、降ってわいたように官位をもらって。燕青のように十年の実績もなく、悠舜と茶州官たちの力添《ちからぞ》えがなくは何もできない。実力で這《ま》い上がってきた彼らが、そんな小《こ》娘《むすめ》に『仕事の話をしてください』などと言われても、|馬鹿《ばか》馬鹿しいと思うのはもっともだ。   彼らは、培《つちか》ってきた官吏《かんり》としての自分自身の経験と実力に、揺るぎない誇《ほ二》りと自信をもっている。それゆえに棚《たな》からぼた餅《もち》のような秀麗の存在をすんなり許すわけにはいかないのだ。   けれど悠舜に代わってもらうわけにはいかない。これは『州牧』の仕事なのだ。第一、もし悠舜に下駄《げた》を預けたら、彼らは自分とー影月をも見限り、この話は終わりになる。  一朝一夕で知識や経験や実績を積めるわけもない。けれど出直してくるはど時間的余裕《よゆう》があるわけでもない。今、この場で、秀麗自身が彼らに認められる機会を得る、たったひと言。   失敗したら、次ほない。   秀麗はぐっと顔を上げて、揺らぐことのない管尚書の双絆《そうぼう》をまっすぐに見据《ふす》えた。 「飲み比べで管尚書に私が勝ったら、話を聞いてください」       ・穂阜歯・  欧陽侍郎は|呆気《あっけ 》にとられた。……今、この娘は何と言ったのだ?秀麗は冷《ひ》や|汗《あせ》をかいているのを悟《さと》られないように拳を握《こバしにぎ》りしめた。  次の、管尚書の言葉ですべてが決まる。  管尚書は秀麗と目を離《はな》さず無言で飲みつづけ、瓶子《とつ! ,hリ》の底がつくと後ろに放り捨てた。  そして秀麗が退かないとわかると、にやりと笑った。 「……面自《おもし〜−》え。お嬢《じょう》ちゃん、自分の言葉に責任もてんだなフォレほ甘くねーぜ。上手《うよ》いこと言っただけじゃ認めねぇ。マジでオレに勝たねーと、話はこれっきりだ」  −つりあげた! とにもかくにも次に繋《 「だ》がる言葉を引き出したことを知り、秀麗は額の汗をぬぐった。あとは、自分の根性次第《こんじようしだい》だ。 「勿論《もちろん》です。それじゃ、管尚書のお酒が完全に抜ける明後口辺りにでも−」 「|馬鹿《ばか》言え。オレが洒抜《ぬ》くわけねーだろ。それに|面倒《めんどう》事はとっとと終わらせてぇんだよ。今、この場で、すぐにやるぜ。おう陽玉、てめーが見届け役やれや。洒じゃんじゃんもってこい。官吏どもの新年ゴキゲソウカガイ賄賂でまだ山のように残ってんだろ」  固まっていた欧陽侍郎は、事の次第を飲みこんだ途端《とたん》に飛びあがった。 「じょ、|冗談《じょうだん》じゃありませんよ! 彼女が死んだら紅家を敵に回すじゃありませんか!」 「ざけんな。このお嬢ちゃんは州牧としてオレに喧嘩売ってきやがったんだ。家だのなんだのが出張る余地なんざねーんだよ。紅黎藻《あいつ》はそこまで馬鹿じゃねぇ」『あいつ』という言葉に首を傾《かし》げつつも、秀麗も欧陽侍郎に肯《うなず》いた。 「そもそもうちは長年ほったらかされててずっと貧乏《げんぼう》なくらいでしたから、紅家を敵に回すなんてあるわけありません。でも管尚書1今日ずっと呑《の》みっぱなしじゃないですか」欧陽侍即は秀麗の怖《こわ》いもの知らずの言葉に背筋がうそ寒くなった。 「……お嬢さん、あの飲んべえにとっては、あんなのは本番前に胃袋《.∵で、ろ》を整えるようなものなんですよ。そもそもあなた、それほどお酒に強いのですか?」痛いところをつかれて、秀麗は頭をかいた。 「えうと。母が強かったらしいんですけど、……私は今までまともに呑んだことないので、強いのか弱いのかちょっとよくわかりません」欧陽侍郎ほ|目眩《め まい》がした。……無謀《むぼう》どころでほない。 「……悪いことは言いません。おやめなさい。言っときますが、あの状態でもあの人に飲み比べで勝った人は一人しかいないんですよ! 死体で帰られたら寝覚《ねぎ》めが悪くて困ります!」 「うっせぇぞ陽玉! いーから酒もってこいってんだよ!」投げつけられた瓶子がまともに後頭部にぶつかり、欧陽侍即は痛みと怒りでキッと上司を睨《に・り》みつけた。 「頭の形が歪《紬が》んだらどう責任をとってくれるんですこの鶏頭! もともと歪んでるあなたの頭とは価値が違《ちが》うんですよ!」ぶっくりと焼いた餅のごとくコブがふくれてきたのを見て、秀鹿は慌《あわ》てて管尚書の机案脇にある特大の樽《たろ》に駆《か》け寄った。思った通り、真冬だとい′ぅのに水と氷の張ったなかに冷酒が何本もぷかぷか浮《う》いている。《あつは》   え′隻  てぬ�・ここまで吊るといっそ天晴れである。  秀麗は遠慮なく樽に手巾をひたして絞ると、欧陽侍即のコブにそっとあてがった。 「冷やしたほうがいいですよ。ちょっと寒いですけれど|我慢《が まん》してくださいねL 「ああ、これはどうもご丁寧《ていねい》にありがとうございます」 「それで、お酒、お願いします」 「え」 「なんとしても管尚書に話を聞いてもらわなくちゃならないんです」  一口、管尚書と空になって宙を飛ぶ酒瓶を見ていたのだ。酒楼《しゅろう》で賃仕事をしていた秀麿は、今日管尚書の腹に入った酒の士分の一以下の酒量でも、見上げるような大男が次々ぶっ|倒《たお》れていく光景を山ほど見た。そのまま死んでしまった人もいた。  まともに飲んだことのない秀鹿が相手になるわけもない。けれど今の秀麗の評価は茶州の評価に直結する。そうと知っていて『茶州州牧hが負けられるわけがない。  いま秤《はかり》にかかっているのは秀麗ではなく、茶州と、茶州府全官吏。たとえ死んでもー。 「負けられませんから、絶対勝ちます」 「けけけ。言うじゃわーか。口だけじゃねーことを祈《いの》るぜ。オラとっとと行けよ陽玉。せっかくだからお嬢ちゃんに良い洒ふるまってやんぜ。良いの見繕《みつノ、ろ》ってこいよ」欧陽侍即は秀麗を見、管尚書を見て、……溜息をついた。 「……わかりました。この室に半日近くいらしても平気なところを見るに、それほど弱くはないはずです。せいぜいやってごらんなさい。あなたがどの程度か、私も見せて頂きますよ」秀麗を見る欧陽侍郎の双鉾が、少女から官吏を見る眼差《まなぎ》しに淡々《た人たん》と変わった。         患歯㈹態。   日が落ち、|鍵《かぎ》をかける頃《ころ》に夫婦はようやく資料室から出てきた。こちらも仕事が一段落ついた奇人が、一応機密書輪《しよかん》を写しとっていないかをきっと検《あらた》め、その間景侍郎がお茶を滝《も》れる。 「……なるほど、こんな削《けず》り方があるとはな。参考になる。だが−」  心底感心して書翰を返した奇人だったが、その前の関門《ヽヽヽヽヽヽ》を思い起こして眉根《まゆね》を寄せた。   ついと向けた視線の先には、工部官舎がある。 「管飛翔か……悠舜、お前が|一緒《いっしょ》でも追い返されたのだろう?」 「ええ。そうだろうとは思っておりましたけれど、ものの見事に十二回門前払《ばら》いをされました 彼ばかりは秀麗殿《どの》の伝手《って》もきさませんからここが正念場といえましょう。なんとしても、飛翔を陥《お》とさないことには、全商連の説得は難しく、この案は十中八九廃案《はいあん》になります」 「……管尚書に美酒を賄賂にもっていかれたらいかがでしょう?」  お茶を配りながらこっそりと景侍郎が口を|挟《はさ》むも、他《ほか》の三人にあえなく撃墜《げヽ、つい》される。 「洒だけとられて門前払いがオチだ」 「いえ、すでに踏《ふ》み倒されて、秀麗殿は可愛《かわい》らしい顔をぷんぷんさせて帰ってきましたよ」 「……進士のときも、皿洗いしてる鳳珠《ほうじゆ》を助けるふりをして庖厨所《りょうりごころ》に入り浸《げた》って、|隙《すき》を見て酒《さか》樽《だる》を次々カラにしていった男ですからね……」景侍即は返す言葉がなかった。 「……そういえば管尚書と欧陽侍郎ほお二人とも女性官吏に最後まで反対されてましたよね」 「まあ、あれはな……」  奇人は|珍《めずら》しく|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に言葉を切り、悠舜も苦笑いした。以前、確たる理由ではなく、ただ女という性別で|嫌悪《けんお 》し、登用に猛反発《一Yつは人ばつ》した礼部尚書がいた。だがー。 「……あの二人は察《さい》前礼部尚書とは違うからな。それだけに難しい」 「だからこそ、秀麿殿の価値がわかる一戦でもありましょう」  悠舜は、秀麗と影月が茶州で告げた言葉を思いだしていた。 『特産物を�人″にしちゃいましょう。何にしたって、すべては人次第でしょう? L学舎《まなぴや》をと告げた二人は、ただ書や経を学ぶだけの単純さに留《とご》まることはなかった。 「勉強だけじゃなくて、医薬・水利・耕田・穀物・木工とか、そういった、現実に役立つ専門的なことを学べる研究機関をつくったらどうかと思うんです。前に、影月くんが名医がもつ知識は極秘《▼Jく�U》にされて埋《∴J》もれてしまうっていっていたのを聞いたのがきっかけなんですけど』  ったない言葉だったが、それは確かに、思いもよらない道に光をさした。 『もしですよ? すっごく良い薬が開発されたら、病気も治ってお金もガホッと入って一挙両得。もし一つの徴《ま》に通常の三倍お米がなる苗《なえ》とか開発できたら、お米が一気に三倍増えて、全商連で売りさばいて結局特産物になっちゃったりとか、そういうこともあるかもしれないし』百工百匠の�人″と�技術″を育てる��⊥例の研究機関の茶州設立を。  二人の州牧の、その才と百年先を見据《みす》える眼差しに、はっきりと心が震《ふる》えた。 「そ《ヽ》の《ヽ》と《ヽ》き《ヽ》、確実に工部秘蔵の工匠官を講師として横流ししてもらわなくては、全商連も動きません。そしてあの工部尚書管飛翔を動かすには、今の私では不可能です。副官の話で|納得《なっとく》するような男ではありません。州牧の言葉でなくては……」 「しかしあれは頑固《がんこ》だぞ」 「私の上司も、負けないくらい頑固ですよ。知っているでしょう? 全商連に乗りこむ前の、しかもほんのさぐりの第一関門でめげるようなら、茶州府にはたどりつけませんでしたよ」|優《やさ》しい|微笑《ほほえ》みの裏に秘められた揺《ゆ》るぎない意志の強さほ、本当に昔と変わらない。 「……ひとつ|訊《き》く。全商連を動かしての資金繰《く》りの発案は誰《だれ》だ?」  |穏《おだ》やかな−けれど誇《ほこ》らしそうな色が混じった微笑みだけで、小さな二人の州牧の案だとすぐにわかった。今度こそ奇人と景侍郎は絶句した。 「|大丈夫《だいじょうぶ》です、私の上司は自らの背負うものをちゃんとわかっておられます」            謡   密浄偽  《鹿習−》《′l貰‥鳩∵》 「……あら、意外とおいしいわ」  秀麗が一口呑んだ時の感想がこれであった。  そして時は過ぎ白。 「……げぇっ! また飲みはしやがったぜあの女! l一話を聞いてぞくぞくと集まってきた工都営たちは、当初は面自《おもしろ》半分、嘲笑《ちょうしょう》半分に物見高くたかっていたが、秀雌がどんどん大盃を干していくにつれ蒼《あお》くなっていった。床《時か》に空の瓶子と酒樽が山と築き−二げられていく。   −ありえないほど彼女は強かった。 「ほほほ。の、呑み終わったわ」 「……野郎《やろう》、やるじゃねーか」 「野郎じゃありません」  欧陽侍郎は二人の空の大盃に公平に酒を注いでいきながら、心底感心した。 「……弱くはないなんてとんでもありませんね。ここまで競った人は五人いるかいないかですよ。しかもここまできてもちゃんと正気を保ってらっしゃるところがまた……」 「母の血に感謝です」                      ㈵ヽノーrL ー一ノ 「げっ、勝負はこれからだぜ」  そしてまたもや新たな瓶子の山が築き上げられるにつれ、その場は静まり返っていった。  下手をすれば、死んでいるほどの童だ。特に秀麗の小柄《こが・り》な体なら|尚更《なおさら》危険だった。  酒が強いだけですむ問題はとうに超《こ》えていた。呑《の》み慣れている管尚書はともかく、秀麗は気力の勝負に入っているのが誰の目にも見てとれた。  彼女が危険地帯にとっくに足を踏み入れているのは明白だったが、誰も止めることができなかった。その言葉を封《ふう》じさせる何かがあった。 「……よぉお嬢《じよ∴ノ》ちゃん」  やがて、盃《さかずき》をあけながら、管尚書が|一生《いっしょう》懸命《けんめい》に呑んでいる秀麗に日をやった。 「なんでわざわざ官吏《かんり》なんかになったんだ?そこいらの野郎と適当にくっついて、ガキ産んで育てて、のんびり暮らすことの何が不服だってんだよ。イイ感じに生きられるだろ?」欧陽侍郎が|驚《おどろ》いたように管尚書を見るも、何も言わなかった。  秀麗は干した盃をどんと卓子《たくし》に置いて、据《†》わってきた目で管尚書を見た。 「……じゃ、管尚書はなんだって官吏になったんです」 「ああ?」 「管尚書なら絶対、かなり器量よしの娘《むすめ》さんとくっつけるですよ。美人で気立ての良いお嫁《よめ》さんもらって、かわいーお子さんつくって、田んぼ耕して、よる…夜には好きなお酒呑んで、のんびり暮らすっていう暮らしを捨てて、なんだってわざわざ勉強して、大金払《はら》って難しい官吏の試験受けて、欧陽侍郎と口喧嘩《げんか》しながら、飲んだくれておそーくまで仕事してんですか? かん、官吏にならなきゃ、それなりにイイ感じに生きられて、こんなとこで小娘《こむすめ》と飲み比べなんかしなくたってよかったんです…よ! ひっく」管尚書ほさすがにやや揺れてきた目を細めて、負けずに盃を飲み干した。  欧陽侍即が会話に耳を傾け《かたむ》ながら、|黙《だま》って二人の盃に酒を注いでいく。 「オレほ官吏になれりゃあイイ酒飲み放題だと思ったんだよ。そんだけだ」 「そんなの酒屋の娘さんと結婚《けっこん》すればいいだけの話じゃないですか。私だって、ずっと必死こいて勉強して、勉強して、会試受けたんですよ。受かるのに……そこまで行くのに、どんだけ…どんだけ頑張《がんば》んなきゃダメかくらい、私自身がよっくわかってます。お酒飲みたいだけで、青春まっさかり捨てておべんきょーなんて、できるわけないんですよ! 違《ちが》いますか!?」注がれた盃を、秀麗はやけくそのようにあおりはじめた。  負けじと管尚書も口をつけ、豪快《ごうかい》にごくごくと喉《のご》を上下させる。  なんと、二人同時にドンと盃を干した。 「なりたかったんだよ! わりーかよ!」 「私だって同じですよ! 悪かったですね!」  睨《にら》み合ったのち、管尚書はにやりと笑った。 「んだよナマイキだな。オレと同じかよ」 「同じですよ。なんも違わないんですよ。何が違うってんですか。お酒だって飲めんですよ」  だいぶ呂律《7。・打′J》が回らなくなってきたが、秀麗の意識はまだまだはっきりしていた。 「おお、そこらの野郎どもよりやあイケルロなのはそろそろ認めてやるよ」 「そんなのよりもっと認めてほしいもんがあんですよ。だから欧陽侍郎、次のお酒です!」  勢いよく盃をつきだす秀麗に、どよめきがあがる。 「なんだよ。お嬢ちゃん自身を認めてくれってのか?」 「そこまで自惚《う一ぬぼ》れてませんよ。お二人に……今の私じゃ全然叶《かな》うわけないって、お仕事見てて重々承知してますよ。全然下の下の単なる駆《か》け出しだってわかってますよ。棚《たな》はた新米官吏と話なんかできるわけないって思ってんのわかってますよ。でもですねぇ、お話聞いてもらわなきゃならないんです。そのためにきたんです。でも州牧として認めてもらえるとこなんて、今の私には一個しかないんです。だからなんとしてもそこだけは認めさせて、お話させてもらいますからね。約束破んないでくださいね。この飲み比べ、死んでも勝ちますからね。ふっふっふ……幸い茶州にはもう一人、ちゃーんと有能な州牧が残ってんですよ。悔《く》いなしですよ」新たに注がれた盃に手を伸《の》ばしかけると、触《ふ》れる前に横から管尚書に腕《うで》を掴《つか》まれた。 「ちょい待てや。おい陽玉、あれとあれとあそこらへんの酒、小盃に注いで二客ずつよこせ。……なんだ、本当に細っこい腕してやがんなぁ」 「そら、一応女の子ですからね。瓶子《とつくり》じゃないんですよ。取り扱《あつか》いは要注意なんですよ」  自分で言っていてそろそろわけがわからなくなってきた。 「わうたよ。よくもまあこのチビな体であの|壁《かべ》よじのぼってきやがったな。おら、そっちの盃じゃなくて、ちょっとこっちのやつ呑んでみろ」  州牧用の大机案《.�くえ》には、大盃のほかにいつのまにか小さな盃がずらっと並んでいる。数口で飲み干せるほどの大ききで、どれも申し訳程度に酒が入っている。 「……なんですか、この可愛《かわい》らしい盃は」 「これが|普通《ふ つう》なんだよ。とりあえず端《はし》から呑んで、うまいと思うやつ言ってみろ」  見れば、同じように管尚書の前にも並んでいる。 「……銘柄《めいがら》とかなんてわかんないですよ?」 「うまいかまずいかだけでいいんだよ。ほれ右端と二番目のヤツ呑んで言ってみろ」  秀麿はわけがわからなかったが、言われた通り呑んで、美《おも.》味しいと思ったほうを指差した。 「この、二番目のほうがちょっとおいしいです」 「ほー。じゃ、次はこれとこれだ」 「……飲み比べ……」 「んだよ。ちゃんと飲み比べてんだろがよ」  思考回路にまで酒が侵入《しんにゅう》してきた秀麗は、なんだか違《らが》うような気がしたが、どこが違うのかももうよくわからなかった。  言われるがままにちょびちょび呑んで、指差していく。  全部飲み干して答え終わると、思わず欧陽侍郎は手を打ち、管尚書は爆笑《ぼくしょう》した。 「こりゃ本物だ」 「……は?」 「おい陽玉、例のヤツ出してこっちの大盃に注いでくれや」  欧陽侍郎は|眉《まゆ》を上げ、どこか心配そうなそぶりを|僅《わず》かに見《み》せたが、結局何も言わず、とある瓶子からなみなみと二人の大盃に酒をついだ。 「よぉ嬢ちゃん、これで最後だ。呑みされるもんなら呑みきってみろ」 「じゃ、呑みきったら負けを認めてくれるんですね」 「おう、認めてやるよ。呑んでみやがれ」  二人ほ同時に大盃をひっつかむと、口を付けた。  一口呑んで、秀麗は今までとは桁違《!?たちが》いの、灼《や》けるような熱を喉に感じた。むせそうになるのを必死でこらえ、急激にぐらぐらまわりはじめた|目眩《め まい》を意志の力でおきえつける。  なんとしても、ここでひくわけにはいかなかった。 (も…お、少し……つ)  ひどく長いように思える最後の一滴を飲み干した瞬間、《しゅんかん》思わず大盃を取りこぼした。  ぐっと、最後の力を振り紛《しでゅ》って管尚書を見上げる。 「どおです。の…みましたよ……つ」  同じく呑みきっていた管尚書が、満足そうににやりと笑うのを見たのが最後だった。  静まり返った工部尚書室で、誰《だれ》かがゴクリと唾《つば》を飲みこむ音がした。 「……飲みやがった、てことは」 「あの女、管尚書に勝っちまったぜ!」 「すげぇ!」  |歓声《かんせい》に押されたように傾《かし》いだ秀麗を、管尚書は片腕で支え、ひょいと自分の|膝《ひざ》にのせた。 「……これをオレの前で飲み干したヤツはお前で二人目だぜ。酒が強いだけで干せるもんじゃねぇ。白州帰山《ほくしゅうきぎん》地方の茅炎白酒《ちえんはくし抱》−当古でどんな大男の意識もぶっ飛ぶ。なあ陽玉?」茅炎白酒の名を聞いて、快挙に沸いていた工部官たちはぞっとした。酒好きなら誰でも一度は|好奇心《こうきしん》で試すが、二度呑む者はいない。国一番の高濃度《こうのうご》酒なのだ。 「私はぶっ|倒《たお》れませんでしたけどね。次に誰がくるかと思っていたら、まさかこんな小さなお嬢さんとは……どうです、体に何か異変はありませんか?」 「ああ、あれだけ呑んで意識はっきりしてたんだ。|大丈夫《だいじょうぶ》だろ」気を失っている秀麗の|前髪《まえがみ》を、管尚書は乱暴にかきあげた。 「認めてやるよ。今のお前がたった一つもってる官吏としての|根性《こんじょう》ってやつをな。おう、おめーらもなぁ、こんくらいの根性入れて仕事しやがれ。この細っこい娘にできて、てめぇらにできわーとは言わせねーぜ。テレテレしてっとあっというまに抜《ぬ》かされるぞ」欧陽侍郎も見せ物は終わりとばかりに工部官を追い出しにかかる。  そうして|扉《とびら》を閉めると、欧陽侍郎ほとくと秀麗の寝顔《ねがお》を見つめた。 「……正直、ここまでやれるとほ思いませんでしたねぇ」 「オレもだ。女とかいう以前に、こ《ヽ》の《ヽ》娘《ヽ》自《ヽ》身《ヽ》を大官たちが特別扱いしてきたのほ誰が何と言おうと事実だからな。地道に遭《ま》い上がってきた人間からすりゃ、ふざけんじゃねぇって言いたくもなんじゃねーか。実際のお嬢《じょう》ちゃん自身はどれほどのもんかと思ってたがー」名ばかりではなく、本気で自分たちと対等に話をする価値のある官吏《かんり》になってからきやがれと心底思って、再三の申し入れも突《つ》っぱねた。そこであきらめもなら、それだけの官吏だ。  だが徹底《てってい》的な拒絶《きょぜつ》にもめげずに、落ちたら骨を折るくらいではすまない外壁《がいへ!」》をよじのぼって                                                                                    、ノきた。とはいえ、飲み比べで気を惹《ァTt》くところまでは管尚書も想定内だった。それくらいはしてもらわないと|馬鹿《ばか》馬鹿しくてやってられない。ド|素人《しろうと》の新米官吏を一州の州牧に据《す》えることを押し切られたとはいえ一応は認めてしまった、一年前の自分たちの立場はどうなる。  ゆえにそこから先が、管尚書と欧陽侍郎の本当の|値踏《ねぶ》みのはじまりだった。  いくら探花及第《たんかさ怜うだい》とはいえ、管尚書と欧陽侍即が州牧として認めるだけのものがあるかといったら、官吏になって一年も経《た》ってない新米にそんなものあるはずがない。   −たった一つをのぞいて。  |誤魔化《ごまか》しはきかない。口先だけで逃《のが》れられるものではない。  官吏にとって、何よりも大事なすべての原点。 「くれてやったのは最初で最後の機会だ。酒が弱かろうと強かろうと関係ねぇ。本気でひけねぇと思ってるなら、死んでもぶっ倒れられねぇ。下戸だろうが死ぬまで呑《の》むもんだ。それが呑めるヤツならなおさら|途中《とちゅう》で|眠《ねむ》りこんだり音《ね》え上げやがるのは言語道断だ。それが、人の命を背負う官吏の根性ってもんだぜ。それさえももってねぇならマジで見下げたがよ」 「もってましたねぇ」 「ああ。どんなに酒に強かろうが、こいつが飲み干した基はそんなもんですむ程度じゃねぇ。イイ|覚悟《かくご 》と根性もってんじゃねぇかよ。聞いただろ〜マジで死ぬまで呑みやがるつもりだったぜ。しかもこのオレ様に向かって言いたいこと言いやがった」 「ねぇ。あなたみたいな|行儀《ぎょうぎ》がなってない大酒飲み、どんなに官位が高かろうが見栄《みぼ》えが少しマシだろうが、器量よしの娘《むすめ》さんとくっつけるわけないじゃないですか」 「そこじゃねーよ」 「わかってますよ。あなたと同じ志望理由でびっくりですね」 「官吏になりたいからなって何が悪いだとよ。だよなー」管尚書は昔、自分がまったく同じことを言った懐《なつ》かしい過去を思いだし、にやりと笑った。 「男も女もありやしねぇ。こういう根性据わった官吏が増えるなら、望むところだぜ。しかも量をこなせるだけじゃねぇ。味の良し悪《あ》Lもわかってるとこがまたいいじゃねーか」いくらなんでも死なせるわけにはいかない。だが最後の最後まで手加減してやるつもりもサラサラなかった。だから最後の盃《さかずさ》を用意させた。あれを呑みきったら口先だけの覚悟と根性かどうかわかるうえに、どっちにしろ強引《ごういん》に眠らせられる。   −呑みきったのを見たとき、久々に先が楽しみな官吏を見つけたと思った。 「あなたどっちの理由で気に入ったんです」 「どっちもだ。お前、オレ以上に飲めるくせに衣《きぬ》が酒臭《くさ》くなるのがイヤだとかふざけたこと抜かして付き合ってくんねーだろがよ。今日はマジで久々に楽しかったぜ。こーゆーカ、、、さんがいたら毎晩晩酌《ばんしやく》すんのも楽しいんだけどよ」 「酒代で身代|潰《つぶ》しますよ。ていうかいつまで膝にのせて−」欧陽侍郎はハッとした。 「……さすがに呑みすぎましたか」 「お前以来だぜ。まったくここまでオレに呑ませるとはなぁ。呑んでみろっつってオレが呑まねぇわけにいくかよ。心配すんな。午《ひる》までに酒は抜く。明日、悠舜に話聞くからここにこいって伝えとけ。それと、お嬢ちゃんは寝《ね》せとけってな。でね一と這《.J》ってでもきそうだからな」寧《ふる》見る俄《うで》を動かし、秀魔の頭を一撫《な》でする。 「オレが抱《人り �》えていってやりてぇが、さすがに今の状態じゃ無理だな。頼《たの》むぜ陽玉。女の子ほ扱《あつか》いに注意しろっつってたから慎重《し人ちょう》にしろよ」 「わかってますよ。が……どうしましょうねぇ」欧陽侍郎はそっと秀麗を管尚書の膝から抱《だ》きあげたが、途方《とほう》に暮れた。 「親御《おやご》さんて誰でしたか……ああ、紅一族ですから李侍郎にご連絡《れんらく》すればいいですかね。極道《ごくどう》な養い親と違って、きっと|真面目《まじめ》に対応してくれるでしこ」ぅ」ぶつぶつと|呟《つぶや》いた時には、管尚書はすでに机案《つくえ》に突っ伏《・J》して眠っていた。   そして−。 「……それには及《およ》ばぬ」   不意に響《ひげ》いた声に何気なく振り返って、欧陽侍即は息を呑んだ。         争奪争曝傘 「玖娘様!」   夜遅《おそ》くー絳攸は文通りに自分を訪ねてきた紅玖娘を礼を尽《つ》くして出迎《でむか》えた。   あまり表情が出ないため、少し冷たい印象を与《あた》える横顔。大貴族を思わせる冷然とした風格と物腰《ものごし》そのままに、玖娘は久万ぶりに会う義理の甥《おい》を見つめた。 「久しいな、経倣」 「玖壌様もお変わりなく、何よりです。伯邑《は! 1ゆう》様と世羅《せら》姫もお元気でいらっしゃいますか」   ふっと、不愉快《ふゆかい》そうに玖娘の|眉《まゆ》が寄った。 「……経倣、お前が私の子供に敬語を使う必要はないと何度言ったらわかる」 「ですが−」 「一族が何と言おうと、お前ほ黎兄上の|息子《むすこ 》であり、私の甥だ。その誇《ほこ》りがあるなら妙な遠慮《みょうえんりょ》をしてへりくだるな。胸を張れるだけのことをお前はしてきたはずだろう」  淡々《たんたん》としたこの言葉こそが、紅玖項という人間を如実《によじつ》に示していた。 「玖娘様……」  絳攸は言葉の代わりに深々と頭を下げた。  まったく、こちらも次兄に養われたとほ思えぬほどまっすぐに育ったものだと、玖娘は変わらぬ衷情の裏でつぶさに繚牧を観察した。  容姿、性格、官位、頭脳、器、《うつわ》どれもまったく文句はない。                   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   −二人ともに。 「さて、経倣。単刀直入に|訊《き》く」  当然のように上座の椅《−ヽ》子《寸》に落ち着くと、玖琅ほ余計なことを言わず、ズバリ本題に入った。 「経倣、お前は黎兄上のあとを継《′l》ぐ気があるか?」  ゆっくりと膣目《リ」う一U/\》する甥を冷静に観察しながら、玖娘は手を組んだ。 「いずれ兄上が抱える責務と権力をすべて受け継ぎ、当主となる気があるなら、私はどんな手を使っても一族を|黙《だま》らせ、お前を推《お》そう。紅家次期当主にもっともふさわしいのはお前だと私は思っている。ただしーわかっているな?考えたこともなかったとは言わせんぞ」まっすぐに、玖娘の冷たい双絆《そうぼう》が絳攸を射|貫《つらぬ》いた。 「条件は、秀麗との結婚《けっこん》だ」  閂�山田  ゆうらりゆうらりと、気持ちよく体が揺《ゆ》れている。   あまり揺らさないようにという|配慮《はいりょ》が伝わってきて、それがとても心地《ここち》いい。   ことのほか|優《やさ》しい手つきで扱われ、どこかに寝かせられて、すらりとした指先で髪《かみ》や頬《ほお》に触《ふ》れられる感覚は、まるで仔猫《こねこ》になって愛撫《あいぷ》されているような気がした。   そして、目を覚まさないようにそっと−けれどぎゅっと抱きしめられた気がして。   ぽっかりと、秀麗は瞳《けとみ》をひらいた。    ーそこには誰《だ——》の姿もなかった。         �歯車能書 「あれ……ここ…私の室……?」   しばらくぼんやりと暗闇《くらやみ》に目を慣らしていると、頭で考えるより先に言葉がポッッと転がりでた。それでようやく、秀麗は自分が自室の|寝台《しんだい》に横になっていることに気がついた。 「……77〜」  妙にあやふやな|記憶《き おく》をぼんやりたぐっていき−切り絵が繋《つな》がった瞬間、《しゅんかん》思わず飛び起きた。 「げっ! なんで私こんなとこで寝て−まさか今までの全部夢——Lぐ、え」  目玉が裏返しになるかのようなひどい|目眩《め まい》に|襲《おそ》われ、よろよろと寝台に腕をつく。  隼・吐《は》く息が酒臭くて気持ち悪い。  傍の小卓を手探《て七)ぐ》りし、水差しをさがして一気にあおる。 「……夢……じゃ、ないわね。……か、勝った、のよねぇ……?」  最後の、死ぬほどむせそうな酒を全部呑《−の》み干したら負けを認めてやると確かに管尚書は言い切り、まさに全体力気力|根性《こんじょう》と引き換《か》えに干した�はず。                                                 rヽ1  そのあと誰かが、邵可《.》邸《.ヽ》まで運んでくれたようだ。  もし、管尚書を引っ張り出すことができたなら、一応、一段階は超《こ》えたことになる。  ……多分、|大丈夫《だいじょうぶ》、だと思う。  秀麗は長い長い安堵《あんご》の|溜息《ためいき》を吐《つ》き�酒気を帯びたそれに嫌気《いやけ》が差す。  情けないやら恥《ま》ずかしいやらでガックリと肩《かた》を落とす。 「……ちょっとどうなの十八を迎《むか》えた娘としてこれは……」  ふっと庭院に視線をやりー秀麗はよろけつつ寝台を降りはじめた。  酔《よ》い覚ましもあったが、第一の目標・工部を落とすことができたら、見に行こうと決めていたものがあった。  一応色々と羽織って庭にでたものの、残っている酒のせいかさほど寒いとほ感じず、顆にあたる刺《曳、》すような冷気もむしろ気持ちよかった。   まだおぼつかない千鳥足でよろよろと目的の木へ歩み寄り、頭をふってよく見上げた。   僅々《こうこう》と照る月夜は、灯りがなくとも|充分《じゅうぶん》に明るい。 「……ああほんと……大きく、なってる」   劉輝がくれた、桜の木。   官吏《かんり》に、なる気があるかと経倣様に言われたときから。   もう、一年半が過ぎて。 『来年には、一つ二つ菅が《つぼみ》つくかもしれないよ』   父からの文にも領《うなず》けるくらいに、いつのまにか大きくなって。  秀麗は、まだまだ太いとはいえない幹に手を遭《 ふ》わせ、こつんと額をあてた。   暑い夏、秀麗の夢はただの幻想《げんそう》に過ぎなかった。そうと知ってもあきらめされずに、侍億《じどう》の恰好《かっこう》をしてでも朝廷《らトやフてい》に上がりたくて、夏が過ぎれば消えゆく夢でも見たいと願いをかけた。   けれど夏が終わったとき、この桜とともに夢は秀麗の掌《てのひら》に落ちてきた。   桜は、|誓《ちか》いだった。もう二度とこの花が散ることのないように。   官吏の道を歩むことを誓ったこの桜に、胸を張れるまでは会えないと思った。 「……ちょっとした、仕事をやってきたのよ。私も、少しは成長したかしら、ねぇ……?」  まるで応《こた》えるかのように風が吹《与》き、梢が《こずえ》ざわりと音を立てた。  バキリと、霜《しも》を踏《ふ》むような音が背後から聞こえて。  なんとなく予感がしていたから、振《;》り返っても秀魔は|驚《おどろ》かなかった。  均整のとれたすらりとした長身。少し頬がこけたせいか、端整《たんせい》さは変わらずとも以前よりぐっと大人びた顔になったのを、別の場所でもう見ている。長い髪が夜風にさらわれ、静かに引き結ばれた口許《く←り一もレ」》はかろうじて見えたけれど、月を背にしたせいで表情までは読めなかった。  秀麗は、黙ったまま立ち尽くす彼に向かって鮮《あぎ》やかに|微笑《ほほえ》んだ。  彼にいう台詞《せり・J》は、百万遍《ワやくまんペん》も考えてきたのだ。 「−ただいま、劉輝」         書巻睾曝・ 「……彼の孤独《こごく》は、王座に取り憑《つ》く影のようなものだ。そこに劉輝様が在る限り、逃《のが》れることはできはしない」たった一人で秀麿を運んできてから、目覚めるのを待とうか、このまま立ち去ろうかずっと悩《なや》んで、結局傍《そば》を離《はな》れることができなかった青年。  邵可は彼がこっそりと秀麗を運んでいることを知りながら、あえて知らないふりを|貫《つらぬ》いた。  とっとと追い出しにかかろうとした黎深も制した。  夢幻《ゆめまぼろし》くらい許されなければ、いつか彼の心は消えてしまう。                                     ずゅ1   邵可は弟にもう十杯《.一�,一V》は軽くこえるお茶を注いでやった。 「それが、王ってもんでしょう」   黎深はぶすっとふくれっ面《つら》をしてそっぽを向いた。 「そうだね。けれど彼は、兄君たちとは違《らが》ってそういう教育をまるで受けてこなかったんだよそして幸か不幸か、|絶妙《ぜつみょう》な時期に秀麗と逢《あ》ってしまった」逢わなければ知ることもなく、こういうものかと割り切ることもできたはずのもの。 「・…黎深、経仮殿《ごの》も藍将軍も、これ以上ないほどの臣下だ。けれどもし、二人が紅藍両家か劉輝様を選ばねはならなくなったとき、どちらを選ぶと思う?」 「そりゃ家です」 「うん。実際、新年は二人とも何の疑問もなく一時臣下職を離れて紅藍両家の仕事に|奔走《ほんそう》したそのかん王がたった一人で仕事をしてることなど考えもしなかったろう。無意識に、王より家を優先する両家気質が染《し》みついているんだ。……公子のときに出逢っていたら、また違っていたかもしれないが、……彼らは、劉輝様と出会ってからまだ二年も経《た》っていない……」  絳攸にとっての黎深、楸瑛にとっての兄弟以上の忠誠を、これから先、土自身に傾《かたむ》けさせるのは、きっととても難しい。 「突《つ》き詰《つ》めれば、二人とも−いや、これから出会う誰にとっても、劉輝様はどこまでいっても 「王』でしかないんだ。 「劉輝』という名の男は誰も必要としない。清苑《せいえん》公子も先王陛下も全員いなくなった今、彼を名で呼ぶ者はもう一生現れはしない」郁可は目をつぶった。……府庫にきた彼が|呟《つぶや》いた言葉が、冷たい雫《しずく》のように心に落ちる。  ……彼は決して、|寂《さび》しいとは言わない。言うことのできぬおのが身を知っている。 「劉輝様自身、ちゃんとわかっている。自分が王としていかに幸せか、いかに臣下に恵《めへ、》まれているかもわかってる。鋒牧殿と藍将軍の存在がどれほど頼《た・り》もしく、寄せてくれる心が嬉《∴ノわ》しく、一生を通じてかけがえのない大切な股肱《ここう》になりえるかも。寂しいなどと的外れで贅沢《ぜいた′1》なことだと、彼はちゃんとわかっている。だから、どんなに親しくても自分と彼らの問には目に見えない薄《う寸》い|膜《まく》があることに自分だけが気づいてしまっても、何も言わない。影《かげ》を切り離すことができないのと同じように、どうにもならないことだと知っているから。……でもね」邵可は瞑目《めいもく》したまま、深い息を吐いた。 「……彼は、見るはずのなかった夢を、見てしまったんだよ。影のない自分の夢を」  黎藻は少し苛立《い・りだ》たしそうに、扇《おうぎ》を鳴らした。 「それが、秀麗だと?」  まさにあのときをおいて他《ほか》に、二度と見ることはかなわなかったろう。王が昏君《ばかとの》のふりをしていたから、それを信じこんで秀巌が零大師の頼みを受けたから、王に対して思うところのある秀麗だったから、遠慮《え人りよ》はなかった。もし、今の彼に対して同じことができるかといったら、多分秀庫でも無理だろう。秀麗が王を王と認めていなかったからやってのけた芸当だ。あのと  き、あの条件下であの二人が出逢ったからこそ、見ることのできた、影のない夢−。 「……秀麗はね、多分劉輝様にとって命令ではなく『お願い』して『名前を呼んでくれた』後にも先にもたった一人の相手だ。だからこそ、秀麗に対してだけほ劉輝様は違う顔を見せる」絳攸と楸瑛が違和感《いわか人》を覚えるのも、それゆえだ。  一見して態度に差はないように感じるから、わからないだけだ。二人が、彼らに対してい《ヽ》つ《ヽ》も《ヽ》と《ヽ》同《ヽ》じ《ヽ》ように見えるのは当然だ。王はまったくいつも通りに二人に接しているからだ。けれど、秀麗に対する反応だけ違和感を覚えるのは、それが彼らが今まで見ていた『劉輝しの顔ではないからだ。彼ら自身が引き出すことはないが、秀麗を通して二人はずっと『劉輝』の顔を見てきた。秀麗と|一緒《いっしょ》にいるときの王はいつも『劉輝』だったから、『王』の顔で|普通《ふ つう》に答えを返した彼にひどく違和感を抱《いだ》いたのだ。  秀麗に対する顔と、彼らに対する顔は、似てまるで非なるもの。  心を許せる存在というのなら、邵可や宋太博《たいふ》や、勿論《もらろん》絳攸や楸瑛にだって許している。  けれど、『劉輝hの存在を許してくれるのは、今や秀麗しか残っていない。  それを知った上で秀麗のために長い旅を許した劉輝の心に、邵可は心からの敬意を表する。  ……誰《だオl》よりも彼は、秀麓の心だけをひたすらに想《おも》っている。 「代わりはいないんだよ。彼が賢君《り人′1人》として名を高めるほどに、彼の言葉の一つ一つが『王命』になっていく。たとえば後宮に他の姫《けめ》を迎えて名を呼べと言っても、それはもはや命令としか思われない。知らないならそれでよかったんだ。けれど彼は……夢を見てしまったんだよ」  まだ不満げな顔をしている黎深に、邵可は苦笑《くし上すつ》した。 「……こういえばわかるかな。彼はね、君や、龍蓮君より、ずっとずっと一人なんだ。君は秀席や経倣殿、黄尚書や悠舜殿《どの》を、見つけることができたね。これからも掌に大切な人は増えていきこそすれ、減ることはない。龍蓮君も、秀麗や影月君の存在を適して、これから少しずつ大切なものを増やす未来を描《えが》いていける。静蘭も、もし工の道を歩いていたら、藍将軍や自大将軍に名を呼ばせることも、お酒を一緒に呑《J)》むこともなかったろう。まして燕苫殿に出会えるべくもない。今の静蘭は望むままに大切なものを掌に|握《にぎ》りしめることができる。けれどね、『劉輝し様はこれから先の一生、もう何も手に入れることはできないんだよ」はじめて、黎深からストンと表情が扱《ぬ》け落ちた。 「……それを知っているから、劉輝様はたった一つの夢にしがみつかずにはいられないんだ。それを失ったら、もう一一度と掌には何も残らないことを、知っているから」  こてんと、卓子《たくし》に頬《はお》をつけて、彼は小さく小さく呟いた。 『……秀麗は、まだ余の名前を呼んでくれるだろうか』  刺那《せつな》に見た夢の残り香《か》は、あまりに甘く切なくー心に残って捨てられない。見てしまった以上、見なかったことにすることなどできはしない。  離れた時間に夢を失ったかもしれないことが怖《こわ》くて、それを確かめることが怖くて、王はぐ  ずぐずと秀麗に逢いにいくことができなかった。  けれど逢わないままでいられるわけがない。   この世でたった一人になってしまった人。 「……秀麗を失ったら、彼は、きっと自分の名前を忘れてしまうだろう」   二度と誰にも呼ばれることなく、降りつもる冷たい雪の下に朽《′\》ち果てて。  賢《カしこ》く、聡明《そうめい》で、|優《やさ》しい心をもつがゆえに、永遠なる孤独にも気づいてしまった。そして幸か不幸か、彼の心はもろく|崩《くず》れて逃避《とうひ》に走るほど弱くもなく−すべてを心に秘めたまま。  彼は氷のような王の道を、たった一人でこれからも歩いていく。 「何一つ贅沢を言わずに、私たちが押しっけた玉座に座ってただ黙々《もくもく》と|頑張《がんば 》る劉輝様の、たった一.つの我値《わがまま》が、……秀麗なんだ」ぱちん、と、黎深の扇が鳴る。 「知ったことじゃありませんね」  黎深の目が冷たく光った。 「なんであれ、秀麗のことを考えるなら、あの演垂《はなた》れ|小僧《こ ぞう》だけにはくれてやるわけにはいきません。そうでしょう?兄上」  邵可は目を伏《ふ》せ、小さく|吐息《と いき》をついた。         食草・・怨争  よろめいたように見えた。  額に手を当て、祈《いの》るようにうつむいた劉輝に、具合を崩したのかと秀麗は手を伸《の》ばした。  しかし秀麗自身も千鳥足だったため、自分のほうこそ|目眩《め まい》で体を崩しかけた。  き気づけば、引きずられるように腰《こし》をさらわれ、劉輝の腕《うで》にきつく抱《だ》きしめられていた。 「……秀贋」 「うん?」 「秀麗……秀麗」  かすれた声で、劉輝は秀麿の名をただ呼びつづけた。  やわらかな髪《かみ》に頬をすり寄せ、ややあって彼はごく小さく呟いた。 「……約束を、守ってくれたな……」   −王ではなく、私を見てほしいと、告げた言葉を、秀鹿は守ってくれた。  王のくせに我値を言っているのは自分だとわかっていたから、もし言葉を違《たが》えられても仕方がないと思っていた。思っていたけれどー思い知るのは怖かった。  逢いたかったけれど、逢いたくなかった。けれど逢えないままでもいられなくて。眠《ねむ》っている彼女を一度抱きしめてしまったら、立ち去ることはできなくなった。                                                                                                 ヽノ  ……そしていつだって秀麗は、花を《′》摘むようにいとも簡単に自分の心をさらう。  されるがままになっていた秀麗ほ、居心地《いごこ◆り》悪そうにギクリと身じろいだ。 「……実はねぇ、白状するとだいぶ悩《なや》んだのよね……。だってあなた、離《はな》れれば離れるほどなんだかいい王様に見えてくるんだもの。でも」謁見《えっけん》の時、あんまりにも必死に何とか王様の顔をしつづけようと《ヽヽヽヽヽヽ1ヽ1ヽ11》しているのが見てとれて。  ともすれば鮒《よ》がれ落ちそうになる王の仮面をかろうじておさえようとしていた彼の姿は、椿が《つぱき》頭から落ちないようにひやひやしていた自分とおんなじだった。  余裕《ょlゆう》のある王様なんかではない。彼もまた、ギリギリのところで踏ん張っていたのだ。  そしてどこか泣きそうな顔をしていたのも、少し心配だった。 「いいんだ。……いいんだそんなの」  ぎゅっと、劉輝は抱く腕に力をこめた。  迷っても、それでも屈託《くつたく》ない笑顔《えがお》と、名を呼んでくれたことが、何よりも嬉しい。  ようやくRにした、こぼれるような微笑《げしょう》に、秀麗もつられるように笑った。 「・…ところで秀麗」 「わかってるわよ。酒臭《くき》いっていうんでしょ」 「うむ、かなり」 「……少しは控《ひか》えめにものをいってちょうだい」  秀麗でなかったら恥《ま》ずかしさのあまり突《つ》き飛ばして駆《か》け去っているだろうお年頃《としごろ》なのだ。 「いや、でもな」  くん、と劉輝は秀麗の髪に頬をすり寄せたまま|匂《にお》いを嗅《か》いだ。外の風に散らされきっていないところがすごい。……そして運ぶ時ももしやと思ったのだが。 (……この匂い……まさか茅炎白酒、ではないだろうな……)  飲み比べで出せるような代物《しろもの》ではない。強すぎて飲み比べにならないはずだ。が−。 (どう考えてもこの匂い……しかも他《はか》にも……)  ふんふんと鼻を鳴らす劉輝に、秀巌のこめかみに青筋が浮《う》いた。|屈辱《くつじょく》でぁる。 「酒臭い女で悪かったわね! 匂い嗅ぐのやめてちょうだい!」 「……いや、どれも極上の銘酒《ごくじようめいしゅ》だから、むしろ酒好きには香《かお》り高いともいえるぞ。しかし管尚書、余よりよっぽどいいのを呑んでるな……。む、これは余も呑んだことがない」耳の裏で低く噴《ささや》かれ、秀麗はぞくりとした。  しかし離れようにも、酒がまわっているせいでろくに体に力が入らない。 「……よくこれだけ呑んだな」 「ちょっと|根性《こんじょう》見せる必要があったのよ……情けないけどまだそれしかもってないんだもの」劉輝は微笑んだだけで、何も言わなかった。 「……でも意外と呑める体質だったのね私」 「……意外どころではないと思うぞ……。まあ邵可もああ見えて強いからな」 「え、そうなの? うちではあんまり飲まないのよ」 「相当強い。だが細君のほうが遥《はる》かに強いと言っていたから、これはもう血だな」  がくっと秀麗はうなだれた。……影月と正反対だったとは……。 「ほー……なんかとことん女の子と七てのかわいげってもんと稼がないのね私……いいけど」  劉輝は少し上体を離すと、鼻先が触《ー》れあうほどの近くで秀麗の顔を見つめた。後《おく》れ毛を指先でかきやり、顎《あご》をすくいあげて月光にさらす。|両腕《りょううで》ごと抱きしめられていた秀塵は身動きがとれず、仕方なく劉輝の顔をとっくり観察することにした。  整った自哲《ほくせき》の|美貌《び ぼう》は相変わらずだったが、やはり——。 「……謁見のときも思ったけど、なんだか疲《つか》れてるんじゃないの?」 「……正月は何かと忙《い・一・バり》しいのだ」 「まあそうだろうけど……そのせいかしら。前より二割増しいい男に見えるわよ。えーと、何て言うんだったかしら。ああそうそう、影が出てきたって感じ?」秀麗帰城の報《しらせ》を受けてから悶々《もんも人》と思い悩んでろくに眠れなかっただけなのだが。  劉輝は長い睫毛《まつげ》を伏せて、秀麗の首筋にかかる髪を払《はら》った。 「秀麗は二割増しどころでなく……締霞《\、llい》になった」  秀麗は目を点にした。 「は? ああ、謁見《あのとき》は馬子《まご》にも衣装《いしょう》ってやつよ。しかも絶対椿のが目立ってたわよ。今の私を見れば、十人並みのままだってわかるでしょう? 顔なんて何も変わってないもの」劉輝ほ日をつぐんだ。真紅の椿を霞《かす》ませるほどの艶《つや》を身につけたことに、ただ本人だけが気  づいていない。内から惨《にじ》みはじめた魅力《みりよく》は、|一切《いっさい》の盛装を取り払っても失われはしないことも(……外見自体に変化ほないため、無理はないかもしれないが……。 「あ、やっぱり冠かぶらなかったのはまずかった? �蕾″《つぼみ》を花轡《はなかんぎし》にしたままだったから冠かぶると身につけられなくて、悠舜さんに訊《き》いたら元日じゃないから|大丈夫《だいじょうぶ》って言われたんだけど……。そしたら花轡だけじゃ見栄《みば》えが悪いって、あれよあれよというまに頭に花を咲《さ》かされてあんなことに……あ、でもね、それでちょっと思ったんだけど」  秀麗はついつい思考に|没頭《ぼっとう》した。 「あとでちゃんとした上奏文にしたためるけど、女性官吏《カ伊んり》の準正装以下は冠なし可の案を提出しようかと。楽だったのよ。冠、|普通《ふ つう》より小さくしてもらったけど、それでも重くて固くて肩《かた》凝《こ》って、頭|圧迫《あっぱく》してくれて痛いのよ……。私でもそうなんだから他の女の人には相当きついと思うわ。歳《とし》をとったらなおさらよ。正装なら|我慢《が まん》できるけど、略装もはつらいわ。だから冠なしで結《ゆ》い上げて、官位を示すのは啓とか幅広《はぼけろ》の髪紐《かみひも》の色で現すとか……今のうちならどさくさに紛《まぎ》れて通りやすいでしょう? 体が楽なほうをとっとと正則にしちゃおうと思って」秀麗の眼差《まなぎ》しに生気が|輝《かがや》くようにあふれはじめる。 「あう! 思わず口走っちゃったけど今の聞かなかったことにして! もしそっちまで上がっても素知ちぬふりしてちょうだい。そういえばあんた王様じゃないの。公平じゃないわ⊥劉輝は思わず笑みをこぼしていた。 「秀麗は、官吏の顔のとき凛《 「ノ》々《l′》しくていっそう生き生きしているな」 「そりゃそうよ。見つづけた夢のまっただなかにいるんだもの。あなたのおかげでね」  なんとか腕を動かして、ぽんと劉輝の背を叩《たた》く。 「ありがとう」  劉輝はもう一度、強く秀麗を抱きしめた。その瞳が《ひとみ》、ふっと硝子《がらす》玉のように感情を消す。 「……白状をすると、余は……秀庫がいなくて|寂《さび》しかった」 「……うん」 「愛してる」  その言葉は、なぜか『寂しい』と同じように秀麗には聞こえた。 「……愛してる」  抱《だ》きつぶされながら囁かれた声は、葉|擦《こす》れの音にもかき消されそうなほど小さく。 「そなただけを……ずっと、愛してる」  子供のように髪に頬《はお》がすりよせられる。冷たい指先が存在を確かめるように秀麗の首筋を遭《ま》い、輪郭《りんかく》をさまよい、顎で止まる。もちあげられるままに仰向《あおむ》くと、間近に吸いこまれそうな双絆《そうぼう》があった。泣くのをこらえるかのような表情のまま、長い陣毛がおりて、秀麗の後頭部を引き寄せる。心を求めるように唇が《くちげる》寄せられる。  重なるかに見えた唇は、寸前、秀麗の白い掌に遮ら《てのけらさえぎ》れた。 「…………」  その恰好《かっこう》のまま、沈黙《ちんもく》のなかでしばらく二人は見つめ合った。   ややあって、自分の口を押さえる小さな手をそっと外して、劉輝はポッッと|呟《つぶや》いた。 「……酒の匂いなど余は気にしないぞ」 「気にしてんじゃないのよ! じゃなくてーちょっとあなたそこに正座なさい」  今までの雰囲気《ふんいき》もなんのその、ビシバシと指導されて、劉輝はわけがわからぬまま大人しく桜の根本にちょこんと正座した。すると秀麗も真向かいにきちんと正座した。   口づけしようとして正座させられたのは(しかも|未遂《み すい》)生まれて初めてだと劉輝は思った。   秀麗ほおもむろに|咳払《せきばら》いをした。 「いい、実はね、茶州で私はまあ……色々と人生に思うことがあったわけよ」 「う、うむ」   わけがわからぬまま、とりあえず素直《すなお》に相づちを打つ劉輝である。 「で、どうも、私は|隙《すき》があるらしいことにも気づいたの」 「…………」  今ごろ気づいたのか、と劉輝は思った。しかもその際は、たいてい秀麗自身の|優《やさ》しさや愛情によるものなので、ふらふらと惹《ひ》かれた相手(1日分)も付け込みやすかったりする。 (|一緒《いっしょ》の|寝台《しんだい》で眠《ねむ》ってくれたくらいだしな……)   劉輝は思わず遠い日々を思いだした。今となっては夢のようである。  泉のようにあふれる優しさが、秀麗に何度でも手を差しのべさせる。そこに付け込んで、甘えるように愛情をむさぼって、劉輝は何度も孤独《こどく》を埋《,ワ》めてきた。 「だからこれからは、ちょっとしっかりしようと心に決めたのよ」 「え、そんな」  思わず本音がこぼれてしまったが、ハッと考え直す。  このままいくと秀麗はあっというまに綺麗になりすぎてしまう。寄ってくる虫を、秀麗自身に撃退《げきたい》してもらえれば不安は減ろう。しかし。 「そんなって何よ」 「うむ。いや、その、余は除外してくれて構わないぞ」 「じゃ、さっきあんたがしようとしたことは何」 「だって流れ的に……ああしたくなるではないか。……接吻《せつふん》もダメなのか……厳しいな……」 「1もう一つ、決めたことがあるのよ」ペん、と秀麗は地面を掌で打った。 「よく聞きなさい」 「はい」 「まあ、|滅多《めった 》にないけど、こう、労の人から想《おも》いを寄せられることがあったら、よく考えて、できる限り|迅速《じんそく》に答えを出すことに決めたのよ」ぎくりと劉輝が身じろぎした。  秀麗はもう一度コホンと咳払いをした。 「ちょうどいいわ。ビシッと言うからよく聞きなさい」 「いやだ」  速攻《そつこう》でぷいと顔を背《そむ》けた劉輝に、秀露の|眉《まゆ》が跳《は》ねた。 「なんですって。あっ、こら、なに耳塞《ふさ》ごうとしてんのよ! ちょっとあんた男なら|覚悟《かくご 》決めて耳かっぽじってビシッと聞きなさいよ!」 「いやだ。そんなの男女差別だ!」 「わけわかんないこと言ってんじゃないわよ!」  すったもんだ桜の下で揉《も》み合うなかで、劉輝はきっと秀庫を見た。 「よいか、確かに余は愛しているとは言ったが、答えを聞きたいとはひと言も言ってない!」 「何よそれ! わかった、小耳に挟《はさ》んだヤリ逃《に》げってやつね!?」 「ヤリ逃げ!?何もやらせてもらってないのにとんだ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ! 聞き捨てならないぞ。だいたい一夜で逃げるなどという失礼且《か》つ勿体《もつたい》ないことを余がするわけなかろう!」  ぷんぷんと本気で怒《おこ》る劉輝に、秀麗はきょとんとした。……よくわからないが、ずいぶんと劉輝に失礼なことを言ったらしい。 「わ、悪かったわ。あとでよく意味を調べて今度から|間違《ま ちが》わずに使うわよ」 「ちょっと待つのだ!」 「何よ。あんたが教えてくれるわけ」 「そ、そういうことを男に言うから隙ができるのだぞ! 余が悪い男だったらとんだことだ」  秀贋にはまるで意味不明だった。そして話が逸《.−・》れていることに気づいてハッとする。 「|煙《けむり》に巻こうったってそうはいかないわよ!」 「違う! だが余は絶対聞かないぞ!」 「何いってんのよ。傷は浅いうちがいいでしょう!?色々悟ったんだから私! 耳塞ぐんじゃないの! くっ……|往生際《おうじょうぎわ》悪いわよ!」 「お、往生際も悪くなるに決まってるではないか! そんなに簡単に思い切れるくらいなら、とっくにあきらめてる!」         �壌歯車㈴  忌々《いま�lま》しそうに黎深は庭院に視線をやりつつ、掌で扇を《おうぎ》打った。あの漢垂《はなた》れ|小僧《こ ぞう》が何を思おうがどうでもいい。肝心《か人じん》なのは、今の秀鰯にとって間違いなく最悪な相手の一人ということだ。 「名前を呼んでくれるだけでいいなら、別に嫁《よめ》にしなくてもいいでしょう」  ふん、と冷たく言った弟に、邵可は嘆息《たんそ′\》した。 「……黎深、君ね、心から惚《ま》れ抜《ぬ》いてる女性に〓生良いお友達でいましょうねhと言われることくらいつらいことはないんだよ……」 「良いお友達の何が悪いんです。素晴らしい関係じゃないですか」 「じゃ、|訊《き》くけど、もし秀麗に自分が叔父《おじ》だと告白できたとして『一生他人でいましょうねし」って笑顔で言われたら君、素晴らしい関係だねって言えるかい」 「…………………………」   みるみる青ざめた黎深の顔が、素晴らしい関係どころかこの世の終わりを物語っていた。  黎深ほどうでもいい人間の心の|機微《きび》にはどこまでも無関心なのが欠点である。 「それでも君はまだ血の繋《つな》がりにしがみつけるけれど、……男と女には何も残らないから、本当に本気になったら、どんなにみっともなくてもあきらめられないんだよ。私のようにね」  瞳目《どうLもく》した黎深に、邵可は苦笑いを|浮《う》かべて見せた。 「私のあきらめの悪さは、それはもう天下二品だったと思うよ。何度も何度も妻にふられて、それでもあきらめられなくて。心が近づいたあとだって『別に結婚《けつこ人》しなくてもよかろうhって最後の最後まで言われたものだ」  誰《だれ》より愛して、愛して、愛した妻は、誰よりも頑固《がんこ》だった。   ようやく愛していると言ってくれた次の|瞬間《しゅんかん》に、同じ唇であっさり『だが良き友人という関係もあるぞ』とつづけるのを、いったい何度聞いたことだろう。 「あれは、かなり堪《こた》えるんだよね……」   あとにもさきにも|生涯《しょうがい》ただ一人と思い定めた相手に、数え切れないくらい邵可は振《・如》られつづけた。それでも、退くことはできなかった。友人など論外だった。   妻になって欲《ほ》しかった。誰はばかりなく、愛する人にとめどない想いをどれほどそそいでも許される場所に。その想いを彼女が受けとめてくれたとわかる場所に。   邵可は凡人《ぼんじん》だったから、最愛の女人《ひと》に男として愛されたいという願いを、どうしても捨てる  ことができなかった。自分にとって最初で最後と、わかっていたからなおさら。 「妻になってもらうまで、それはもう死ぬほど苦労したよ。私は彼女なしではいられなかったけれど、彼女は違《ちが》ったからね。さんざん喧嘩《けんか》して、怒らせて、困らせつづけた」黎深ほ、かつての仲が艮すぎるほどの長兄夫婦を思いだして、|妙《みょう》な顔をした。 「……あの義姉上《あねうえ》が?」 「彼女は私を愛してくれたよ。でもね、それだけでは|駄目《だめ》なのだと、いつも言い張った。いや……ちょっと違うな。愛しているから妻にはなれぬ、と言ったんだ」彼女の雷光《・りいこう》のような眼差《まなぎ》しは愛することで眩《く・り》むことはなかった。『現実を見ろバカタレ』と懇々《こんこん》と理詰《りづ》めで諭《きと》しにきた妻を、邵可《じバん》を想っての言葉と知りつつ邵可は頑《がん》として突《つ》っぱねた。 『知ったことか』の一点張りだった自分のほうが、思い返せば明らかに盲目《も・フもく》だった。  とことん平行線を辿《たご》っていた喧嘩が収束したのは、ひとえに邵可の根性の粘《こんじようねば》り勝ちだった。  ょぅやく、投げやりながらも妻の了承《りょうしょう》を得たとき、邵可は生まれて初めて奇蹟《させき》を信じた。 「彼女ほ一人でも生きていけた。必要としたのは私の料うだ。秀麗も妻と同じだよ。妻がいなくなったあと、私と静蘭を救ってくれたのは幼いあの子だった」絶望の底で|呆然《ぼうぜん》としていた自分たち二人を、秀麗の小さな手だけが引き上げてくれた。  誰かにすがらなくても、守ってもらわなくても、秀麗は一人で歩いていける。母譲《? わず》りの、柳《やなぎ》のようにどこまでもしなやかで強く優しい心は何があっても折れることはない。  だからこそ、手に入れることはとても難しい。  すがることも守ることも求めず、どんな難題も自らの力で蹴散《けち》らして乗り越《こ》えて、ずんずん先へ進んでしまう娘《むすめ》にほ、男がカッコ良く手を差しのべて助けに入る隙もない。  あふれるほどの愛情をくれるのに何も求めてくれない。何かをしてあげたくてもあげられるものがない。そんな女性を手に入れるためには、男は別なものを示さなくてはならない。  邵可が妻に必死でそうしたように。 「……秀麗を愛情を以《もつ》てお嫁にしようとするなら、相当難しいよ。相変わらず他人に情《お》しげなく愛情を与《あた》えてるのに、官吏《かんり》になったことでますます夢に向かって一直線で、なおさら難度は上がったしねぇ。むしろ政略結婚のほうがあっさり肯《うなず》くんじゃないかと思うよ」 「秀麗に政略結婚なんて|冗談《じょうだん》じゃありません!」実父はノホホソとしているのに対し、むしろ叔父のほうが猛反発《もうはんはつ》している。 「燃やしも闇《やみ》に葬《ほうむ》りもしないで、きちんとお見合い話を選んでもってきて、今さら何言ってるんだね。当主朝議にまで出てくれて」午《ひろ》から一つずつ検分していた見合い申し込み書翰《しよかん》を、邵可は改めて眺《なが》めた。 「玖娘が例の木簡を発給したことで、遅《おそ》かれ早かれ周りのほうが秀麗を放っておかなくなる。それに今の秀麗が結婚を考えるとするなら、|家柄《いえがら》、官位、才覚を吟味《ぎんみ》した上での政略的な結婚でな《ヽ》け《ヽ》れ《ヽ》ば《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》。それがわかってるから、早めに選《え》りすぐってもってきたんだろう? 私から見ても、これはかなりいい人選だと思うよ」黎藻はぷいとそっぽを向いたかと思うと、ぼそりと|呟《つぶや》いた。 「……藍家には絶対くれてやりたくありません」 「ほう」 「七家にもくれてやりたくありません」 「ふーん」 「むしろどの家にもくれてやりたくありません」 「まあ、紅家直系のままのほうが実際出世には何かと便利だしねぇ。藍家には負けるけれど。伯邑くんも良い子だし。秀麗より年下だけど、玖娘の子供だけあって絶対将来有望だよ」 「……要《めあわ》せる前に伯邑がどこぞの娘と駆《か》け落ちして出奔《Lゆlつ・ぼん》するかもしれませんよ」 「ああ、そうかもね」                                                                                              こJ  ほのぼのとお茶をつぐ邵可に、黎深がキッと睨《−.�_−》みつけた。 「何が言いたいんです兄上」 「言いたいことがあるのは君じゃないのかい。玖娘はもう動いてるよ」 「絳攸には自分の道は自分で選べと教育してきたつもりです」 「君じゃなくて君の奥さんの教育の賜《たまもの》だろう」  黎深はぐいーっとすっかり出がらしの茶を一気飲みした。ここまでくると|恐怖《きょうふ》の父茶も薄《うす》まりすぎて白湯と大差ない。もはや茶と呼べるのかが疑問であるが。  ダソ! と湯呑《ゆの》みを置いて|一拍《いっぱく》。 「−他《はか》の男にくれてやるくらいならむしろ私がお嫁にもらいたいですよッ!! 」  邵可はずすず、と茶をすすると、叔父として禁断のひと言を迷わずあっさり|叫《さけ》んだ弟に、しみじみと|溜息《ためいき》をついた。 「こんな君に、|呆《あき》れても見捨てないで奥さんとして付き合ってくれるのは、この世で百合姫くらいだよ。黄尚書には申し訳ないことをしたけれど、君のお嫁にきてくれて本当に良かったと思うよ。百合姫のおかげで経倣殿《ごの》もとても立派な青年に育ってくれて」 「世話好きのおばちゃんみたいなことを言わないでくださいっ。あんなに|綺麗《き れい》になって帰ってきちやってどうするんです! どこぞの馬の骨にとられても兄上はいいんですか!?」 「まあ、最後は秀麗が決めることだからね。それに君が心配しなくとも、今のままでは秀麗が劉輝様の手を取ることはないよ。あの子は聡《さと》い」  とん、と邵可は空の湯呑みを卓子《たくし》に置いた。 「そして、劉輝様もわかっている。だからこそ、彼は|縁談《えんだん》から逃《に》げつづけて——そして秀麗に今、決して是非《ぜけ》を問わない。……もし彼が私の考えていることと同じことを思っているとしたら、劉輝様は苦の私よりよっぽど慎重で辛抱《しんちょうしんぼう》強く注意深く、そして本当に必死だよ」最後の最後まで自分を拒絶《きょぜつ》した、愛する妻の言葉を思いだす。 『我が背の君、愛し愛されるだけでは、どうにもならぬこともあるのじゃ』  ……よく、似ていると思った。 「王の結婚も、官吏の結婚も、すでに政事の問題だ。互《たが》いの気持ち云々《うんぬん》以前の話だ。劉輝様はもとより、秀麗も茶州でそのことに気づいた。だからこそ真っ向からぶつかりあう。秀麗も劉輝様も、一歩も退かないだろう。たった一人で、劉輝様が秀麗と朝廷《ちょうてい》と……繚家と、君をはじめとする小姑官吏《かんり》たちを相手に、どこまで粘って意思を通せるかーだね」         患㈴㉂聴.砲   −もとより、秀産の答えなど茶州に行く前からわかっていた。  だからあのときも用心して最後通牒《きいご? うちょう》を避《さ》けるように話を運んだのに、こんなところでぺろっと聞いたら元《もと》の木阿弥《もくあみ》である。 「よいか! 余、余には遠大なる大計画があるのだ」  劉輝は秀麗に負けないようにビシッと言おうと努力した。 「もう一度言う。返事が聞きたいなど、余は一度も言ったことなどないはずだ!」 「愛ナントか⊥つてコッ恥《ほ》ずかしいこと、あんたついさっき言ったじゃないの⊥ 「あれ、あれは元気を補充《ほじ沌う》するために言ったのだ。|寂《さび》しかった、し……また、茶州へ帰ってしまうから、気力を補充しょうと……。つまりほ余の気持ちが変わってないことだけ知っててもらえれば今のところそれでいいのだ!」 「私は早めに勝負つけたいのよ!」 「余はまだ布陣《ふじん》を敷《し》き終えてないゆえ、断固|拒否《きょひ 》するッ!! 」 「そんなの敵がハイそうですかなんて聞いてくれると思ってんの!?」  もはや|恋愛《れんあい》の話をしているのか決戦の話をしているのかよくわからない。  秀薦ほ肩《かた》で息をしながら、じろりと劉輝を見た。 「……布陣を敷き終えたらなんとかなるって思ってるわけ」 「なんとかするために布陣を敷いているのだ」 「無駄《もだ》よ」 「ならそのときに言ってくれ。とにかく今攻《せ》め込まれても余は逃げの一手に打って出る」 「どこが打って出てんのよ」 「−私《ヽ》に」  そっぽを向きながら、劉輝はぽつんと呟いた。 「最初で最後の鰭《かけ》に出る、機会くらい、残してくれたっていいではないか」  秀麗はゆっくりと息を吐《�’》いた。  ……知っている。彼がもつ権力を以てすれば、秀麗の意思などなんの意味もなくなる。たったひと言ですべてはすむのに、決してそれをしない。  どこまでも彼は、秀麗の意思を尊重してくれる。  そのうえで、彼は何かを考えている。そしてそのときまで返事はいらないと。 「……私は変わらないって、約束をしても?」 「悪いが、余は非常にあきらめが悪く気も長いのだ」   あきらめられるわけがない。  劉輝が欲《ま》しいのは、友人としての秀麗ではない。 「……わかったわ。じゃあ、今は言わないでおくわよ。一時休戦ね」  桜の木にもたれかかってあぐらをかいている劉輝の隣《となり》に、秀巌は同じように幹にもたれて、両足を投げ出すようにして座った。 「……でも、私がその前に誰《だれ》かと結婚《けっこん》したらどうするのよ」 「うむ、それだけが心配なのだが、その前に文をくれると春に約束してくれただろう」 「そしたら因果を含《バく》めて私から口癖《だんな》様をとりあげようっての」  |普通《ふ つう》とは逆の発想になるのが秀鹿である。  すると、劉輝はしおれた青菜のようにうなだれた。 「……そう……してしまうかもしれぬ。約束は……できないL 「正直な人ね」  秀麗は憎《にノ、》たらしいくらい整って高い劉輝の鼻の頭を、ビシッと指ではじいた。 「ひとつ|訊《き》くわ。あなた、私を茶州に帰すつもりがある?」 「……? 勿論《もちろん》だ」 「ありがとう。その言葉のほうを覚えておくわ」  寂しいと告げても、決して傍《そば》にいて欲しいとほ言わない。愛してると言っても、こうして秀魔の手を離《はな》してくれる。待っていてくれとも言わない。  一度も、心を押しっけることのない彼を、秀麗は覚えておこうと思った。   たとえ、もし本当にその時がきたとしても。  劉輝はどこまでも正直だったから、秀麗も正直に告げた。 「私、あなたを好きになっても、きっと今日と同じことを言うわよ」 「わかってる。だから、余も今は言わぬのだ」 「あなたはいつも私にひどいことぽっかり言わせるわね」 「傷つかないから|大丈夫《だいじょうぶ》だ。それよりずっと優しいことなんて、余は知っているのだ」  そろっと劉輝の腕《うで》が伸《の》び、秀麗の手を|握《にぎ》った。秀麗は掛《——h》り払《はら》わなかった。  氷のように冷えた掌が《てのひら》、劉輝の寂しさを物語っているかのように思えた。   東の臭《そら》が、白む。仲良く手を繋《つな》いでそれを眺《なが》めながら、劉輝はポッッと|呟《つぶや》いた。 「……秀麗」 「うん?」 「……やっぱり、口づけも|駄目《だめ》か」  捨てられた仔犬《こいぬ》のような寂しげな声にも、秀麗は|騙《だま》されなかった。 「だめ」  最後までビシッと告げたあと、あ《ヽ》の《ヽ》と《ヽ》き《ヽ》思わず目を閉じかけたことは言わないでおこうと、秀麗はひそかに思ったのだった。         年逓・一報・  頭から|爪先《つまさき》まで|完璧《かんぺき》に|凍《こお》りついた義理の甥《おい》に、玖取はこめかみを揉《も》んだ。 「経倣……自分でないなら、誰が黎兄上の跡《あと》を継《つ》ぐと考えていたっ・伯邑か?」 「その……私は、李姓《せい》をいただきましたから……」 「ああ、そのことは私も|驚《おどろ》いた。紅家を嫌《き・り》っていても、何も自分の子供に別姓《べつせい》を名乗らせることもあるまいに……。知らず、何もしてやれなくて悪いことをしたな」生|真面目《まじめ》な玖娘の謝罪に、繚仮は苦笑いした。こうも性格が違《ちが》う三兄弟も|珍《めずら》しい。 「現実的に伯邑よりお前のほうが紅家当主にふさわしい。ゆえに最初から伯邑にはお前の紺佐《ー曳、》として教育している。あれもお前を兄と慕《した》っているゆえ、むしろ喜んでいる」 「はーな、なんですって」こうと決めたらどんな手段を使っても目的を達成する紅玖娘。彼のせいであの黎探でさえ紅家当主に就《▼つ》く羽目になったのを、縁故は今さらながら思いだした。て、手際《て∫わ》が良すぎる。 「いえあのーく、玖娘様……」 「ぐずぐずしていると、秀麗を他家にとられるぞ。私と黎兄上が例の木簡《ヽヽヽヽ》を秀麗に与《あた》えたのは別に秘密にしてはいない。目端《めはし》が利《き》く者こそその意味がわかろう。無論、お前もな」絳攸は息を呑《の》んだ。 「そうだ−秀麗は紅家当主をも動かす位置にいると、あの一件は示した。勿論、紅家直系長姫であることもすぐに調べがつくだろう。秀願の価値は、それがわかる実力者たちにとって、今や公主に匹敵《ひつてさ》するほど跳《は》ねあがっている。|今頃《いまごろ》黎兄上のところにぞくぞくと見合い話が届いているだろう。紅家直系の血と紅家を動かせる娘は喉《むすめのど》から手が出るほどほしがられる」 「玖娘様は−それを見越《みこ》してあの木簡を……?」 「手っ取り早く将来性のある男が選りすぐられるからな」その意味は、わかりすぎるくらいよくわかった。  玖娘は衷情を変えずに、緯仮の意図を先取りして汲《く》みとった。 「無理に結婚させようと考えてはいない。だが、官吏《かんり》として上を見るとき、紅家の名は武器になる。茶州のときのようにな。同時に、それは茶仲障のように秀麗のもつ血に執着《しゅうちゃく》をもつ者が増えることを意味する。玉石混活《ぎよくせきこんこう》するまえに玉だけ抜《ぬ》き出しておこうと思ったわけだ。あの木簡に気づく者なら、秀麗の相手としてもふさわしい。黎兄上も、そう思ったからこそあの木簡を黙認《もくにん》し、わざわざ当主朝議に出席して秀麗の価値を知らしめるように、だめ押しをした」  とん、と玖娘は|椅子《いす》の腕を指で叩《たた》いた。 「……経倣、もし今の秀麗が結婚を考えるとき、相手として選ぶならば高い地位・|家柄《いえがら》・能力をもち、秀麗に理解を示す相手が望ましい。そうだな? L 「   − 」 「体面などの理由でないのは勿論わかっているな? 出世を考えるなら、そ《ヽ》れ《ヽ》が必要なんだ。  権力は誰が何と言おうと役に立つ。もし秀麗が紅家直系長姫でなかったら、あれほど上手《lリま》く茶州で事は進まなかったろう。そもそも王も州牧として送りこまなかったはずだ。紅家直系という要素がなければ茶一族が躊躇《ちゅうち上》する理由はどこにもない。香鈴という娘もそれで命が助かった。  茶一族の動きを牽制《けんせい》する楔《くさぴ》になったのは突《つ》き詰《つ》めればそれだ。権勢ある家の力は、現実に役に立つ。だからこそ、出世を望む男は家柄の良い娘との結婚を望む。そしてー」まっすぐに、少し冷たく見える玖項の日が経仮を射た。 「秀寮は出世を望んでいる。いや、出《ヽ》世《ヽ》を《ヽ》し《ヽ》な《ヽ》け《ヽ》れ《ヽ》ば《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》ことを無意識に知っている」 「…………」 「女性の官吏登用を秀麗だけで終わらせるなら、別に出世をせずとも構わぬし、誰と結婚してもいいだろう。適当な官位で退官しても誰も文句は言わない。だがそうでないなら秀腰は出世を�それも、万人が認める最高官吏にまで登《のぼ》り詰める必要がある。そうでなくは二度と女性登用が認められることはなく、単なる王たちの気まぐれ、色ものとして秀麗は終わる。当たり前だな。王と国を動かして制度を変えた以上、『ちょっと官吏やってみたかったんですLで済むわけがない。本気で女人が政事に参画する価値があることを知らしめるまで、秀麗の価値は色もののままだ。どころか『|所詮《しょせん》そんなもの』と女人全体を旺《おとし》める者も出よう。秀麗が背負っているのは、そういうことだ。違うか?」 「……その、通りです」 「逆に言えば、秀鹿のなかにどこまでも上を目指す意思を垣間見《かいまみ》なくては、お前をはじめとする大官たちが強引《ごういん》に女人登用を推《お》し進めることもなかったはずだ。……茶州の一件で私にもわかった。秀麗は良い官吏になろう。お前と同じく、紅家が誇《はこ》れるようなな」無表情とも思える顔と淡々《たんたん》とした静かな声が、絳攸に礼を言う機会を逸《いつ》しさせてしまう。 「もう後戻《あともご》りはできぬ。弱音を吐いて|途中《とちゅう》退場することもな。もとより秀麗はそんなこと考えてはいまい。上にーお前と同じ場所へ立つことをただひたすらに願って、階《阜ぎはし》をあがってくるだろう。そしてそのとき初めて、秀麗の名は歴史にとって意味のあるものとなる」 「はい」その日を夢見るかのような絳攸の|微笑《ほほえ》みに、玖娘は悟《さと》られないように笑った。 「だが、現実は厳しい。朝廷《らトやつてい》で出世を望むなら、権勢を誇る家の後見が必要だ。幸い、秀麗は紅家直系長姫というこのうえない武器をもっている。どこへも嫁《とつ》がないままなら−言い方は惑いがー秀麗の所有権は私と黎兄上にある。存分にその名ほ効力を発揮しょう」 「……はい」 「ただ、そうして秀贋の名が価値をもつと、周りのほうが放っておかなくなる。このうえない花嫁《はなよめ》候補だからな。同時に秀麗の存在を疎《うと》ましく思う者たちが適当に誰《だれ》かと要《めあわ》せてうまく官吏の座から引きずり下ろそうとも画策してくるだろう。姓《せい》は変わらずとも、嫁《とつ》げば所有権は婚家《こんけ》に移る。|妙《みょう》なところにもってかれれば一巻の終わりだ。勿論、私も黎兄上も事前にそういった話は叩きつぶすつもりでいるが−つまりはこれからそういった話が秀麗につきまとうのは避《さ》けられないということだ。ゆえに事前に玉をえりわけたわけだ。もし秀麗が嫁いでも官吏をつ                                                                                                                                                                                             /  づけることができ、なおかつ紅家にかわって出世の後押しも|充分《じゅうぶん》にしてくれるような地位も家柄もある有能な男たちをな」 「…………」 「私としては、秀麗と結婚してお前が紅姓に改姓《かいせい》し、次期当主襲名。《しゅうめい》秀麗は思う存分出世の階を駆《か》け上り、いずれ朝廷を掌握。《しようあく》秀麗も手許《てもと》に残り一石二鳥で、一番採用したい縁組《えんぐ》みだ」そして玖娘は実に淡々と爆弾《はノ、了−人》発言をかましてくれた。 「ゆえに郡兄上にはすでに見合い話を届けてある」 「は−え!?」 「家同士の結婚などそういうものだろう」 「え、あの、その、ちょっーは、はや�」 「経倣、お前は秀麗と結婚したくないのか?」  斬《、−》り込むような視線を受けて、絳攸は言葉を失った。 「女嫌《ざら》いのお前が、珍しく秀鹿を受け入れただろう。秀麗もお前を慕っている。それがどんな種類の愛情にしろ、良い夫婦になると私は思うがな。激しい恋情《れんじょう》でなくても、互《たが》いを認め、尊敬し、支え合い、これから先の長い途《みち》を、ともに手を携《たずき》えて歩むことができる。夫婦として理想的な形でもある。お前と秀麗にはそれができると見ていて思ったものだが。それに」つづく言葉を、玖項は胸の内に押し込んだ。先ほどの経仮の微笑《ぴしょう》が思い浮《う》かぶ。 (……気づかぬうちに、ゆっくりと育っていく恋心《こいごころ》もある)  縁故がそうであるかは、判じかねるところではあるが。 「……お前の柏手としても、秀麗の相手としても、いちばん良いと私は思っている。お前なら、            .わ秀麗の踏《▼》み台になってやれる」うつむいていた絳攸は、ハッと顔を上げた。  とん、と玖項は椅子の腕《うで》をもう一度叩いた。 「出世を望む男は、家柄の良い娘との結婚を望むと言っただろう?娘を通して婚家の権力を手に入れ、官位を高めるわけだ。秀腰はその道をすればいい。紅家の力と、その歳《し」し》で吏部侍即までのしあがったお前の高い才覚をもって、お前が秀麗の出世の踏み台になってやれ。力を貸し、手を引き、教え導いて、官吏として最高の高みまで名実ともに秀麗を引きずり上げてみせろ。お前になら、それができるはずだ」絳攸の目がいっぱいに見ひらかれる。  微《カ.す》かに震《ふる》える手で、額を押さえた様子に、玖項は満足した。少しは心が揺《ゆ》れたらしい。 「当主を継《つ》ぐにしても、どうせ数十年はあとの話だ。それまで李姓《せい》でゆっくり考えればいい。お前が夫となるなら、秀麗が紅家当主となっても構わぬしなlょ玖娘は少し追い打ちをかけてみることにした。 「まあ、秀麗の結婚相手としてもっとも論外なのは、王と静蘭だな」  玖娘のもとにはすべての情報が入ってきている。一番鋒牧の心にかかるのもこの二人だろう。  案の定、絳攸はギクリと揺れた。 「王に召《め》しあげられれば即《そJ、》後宮入りだ。官吏などつづけられるわけもない。たとえどんなに有能でも妃《きさき》として政事に関《カカ》われば専横になる。そんなことになればこれ幸いと紅家を糾弾《きゅうだん》して権勢を削《そ》ごうとする輩《やから》で朝延は混乱する。秀麗はそれがわからぬほど愚《おろ》かではない。召しあげられれば自らの意志で二度と政事に関与《かんよ》することはないだろう。正静蘭は−当然だな」玖娘の言わんとすることを察することができたからこそ、絳攸は何も言えなかった。 「個人としてどれほど高い能力を有していようが、意味はない。か《ヽ》つ《ヽ》て《ヽ》は《ヽ》ど《ヽ》う《ヽ》で《ヽ》あ《ヽ》れ《ヽ》、今の彼は単なる一武官だ。正静蘭の名で全商連を従えることができるか? 権力者に繋《つな》ぎをとることができるか? 秀麗のために半刻で金百万両を用意する必要があったとして、今の彼にそれができるか? どころか、官吏《かんり》の一人も動かせまい。ただ愛するだけや、そばにいて支えるだけなら、何の役にも立たん。実際茶州でもたいして役に立たなかったしな。もとより文官ならともかく、武官でいくら出世してもまるで無意味だ。……まあ、さすがというか、本人もわかっているようだがな。結婚しても秀麗の足伽《あしかせ》になるだけだ。そしてそれを選んだのは彼自身だ。文官になる機会もあったものを、過去を理由にして右羽林軍に入ったのは本人だからな」  玖娘はまるで|容赦《ようしゃ》がなかった。−そして、……正しかった。 「まあ、これらの話ほ秀腰が結婚するのが前提だがな。頭の片隅《かたすみ》にでも留《とど》めておけ」  玖娘はゆっくりと背もたれから身を起こした。 「ただし、時は待ってはくれんぞ。状況は《じょうきょう》常に変化しっづける。現実に秀麗に|縁談《えんだん》はぞくぞくときているし、その中には藍龍蓮の名もある」  縁故の表情がサッと変わった。 「藍−龍蓮!?」 「そうだ。おそらく藍家は最初、秀麗と要せるにしても藍楸瑛のほうを候補に上げていたはずだ。だが秀麗は藍龍蓮と国試で会い、杜影月ともども彼にとって特別な位置を占《、−》めてしまった。�藍家が放っておくわけがない」 『藍龍蓮』は生来の名ではなく、選ばれた者が襲名する。藍家直紋�双龍蓮泉″《そうりゆうれんせん》の二文字をとったその名は、藍家歴代で思いだしたようにときおりポッリと現れる。そしてその名を襲名した者のほとんどが、藍家当主となった。  その名のもつ意味を知る者は、朝廷でもほんの一挺《!?レ∴Lざ》りにすぎない。  玖項はすらりと|椅子《いす》から立ちあがった。 「……まあ、今回は様子見程度と見たがな。本気でくるかはわからん。そんなふうに、ぐずぐずしていると他家に先手をとられるかもしれぬということだ。よく考えておけ」すれ違《ちが》いざま、玖娘は縁故に|囁《ささや》きかけた。 「お前が秀麗にいちばんふさわしいと、お前自身がそう思うことを願おう」  そして、玖娘は室を出て行った。         ㉃魯�翁� 「静蘭、そろそろ鵬ったほうがいいんじゃないか? 群みっぱなしだろう」  気遣《さづか》わしげにとんとんと背を叩《たた》かれる。じろっと睨《にら》みつけても、藍楸瑛ほいつもと違っておかしそうに笑うだけだった。 「君とこんな風に呑める臼がくるとは思わなかったな。大将軍二人もいたくご満悦だよ。自分たちについてこられる部下が増えたってさ。あの二人に飲み比べで負けたことは気にしなくていいよ。勝てるわけないし、……私も負けたしさ……」駆《か》け引きもなにもなくこうした場所で呑むことを、静蘭はずっと煩《わf・り》わしいと思っていた。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だって。今度は顔にイタズラ描《が》きされないように見ているから。酒入った朱全の癖《し嘩ぜんくせ》でね……いやでも髭《けげ》も二重丸も似合ってたし、大爆笑《だいばくしょう》をとれるってすごいことだと思うよ。だからもう|怒《おこ》って剣《けん》振り回さないでくれよ……」心を鎧《よろ》い、|完璧《かんぺき》であらねば生き抜《ぬ》けなかった遠い苦。もうそんな必要はないことを知っていながら、……そうあることを自ら望んだ。そ《ヽ》れ《ヽ》が自分だと思っていた。けれど−。 「ようやく君と呑めて、みんな喜んでるよ。いつも逃《l二》げられてきたから余計ね。そうそう、君に稽古《けいこ》をつけてもらいたいっていう後輩《こうはい》がたくさんいるんだ。ようやく正式に大軍したと思ったら茶州行きで、みんなガックリしてねぇ。よかったら出立までに相手をしてやってくれ」三十六回目の飲み比べをしている大将軍二人から 「オレの試合も入れろー!!」と怒号《どごう》と|槍《やり》と大剣が飛んできた。致命中《ヽヽヽ》のそれを静蘭がかわすと、ドカドカッと卓子《たくし》に柄《つか》までめりこむ。  煩わしいと思っていた喧燥《けんそう》は不思議と|優《やさ》しく、その言葉は心地《ここち》よく耳に響《ひげ》いた。 「みんな、君が帰ってくるのを楽しみに待ってたんだよ」  優しい本音《ことば》を聞けるその場所はいつだってひらいていたのに、ずっと無視していた。  ……茶州に行く前、静蘭は邵可と秀麗だけで満足していた。二人を守れる箱庭《ゆめ》の中に、自ら望んでたゆたっていた。やがて秀麗は自ら箱庭の外へ歩き出し、そのあとを迫った静蘭は、また同じような箱庭に移るのだと思っていた。けれど違った。 「……ん?ああ、それはそうだろう。だって秀麗殿《ごの》ほ君が何かをしてあげなくちゃならないほど、何もできない女性じゃないだろう〜」無意識に何かを|呟《つぶや》いていたらしく、楸瑛がそう返してきた。あっさりした答えに腹も立ったが、怒りは酒とともに消えていく。  ……秀麗の|邪魔《じゃま 》をするなと、茶州で繰《く》り返し燕青は言った。  燕青も影月も悠舜も、歩む道と自らの立ち位置を知っていた。……ただ自分だけが、何《ヽ》の《ヽ》た《ヽ》め《ヽ》に《ヽ》茶州にきたのか、答えをもたなかったことに燕青は最初から気づいていたのだ。  箱庭から出た秀麗は、守られることを甘受《かんじゆ》してくれたそれまでと違って、自らの力で切り開かなくてはならない道に入った。するべきこと、やるべきことを見定めた彼女に、ただ漠然《ば・\ぜ人》と手を差しのべることに意味はなかった。今までと同じように傍《そぼ》にいようと茶州行きを決めた自分は、家人と武官の境目も、紅秀麗と紅州牧の境目さえ、|曖昧《あいまい》なままだった。  何もかも|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》だったから|距離《きょり 》の取り方も見失い——ー箱庭《ゆめ》は壊《こわ》れた。 (……道を)  考えなくてはならなかった。今度こそ言い訳でも誰《だれ》かを理由にするのでもなく。  自らに馳《よ》らぬ理由で目的地もなく歩けば、簡単に行き詰《.つ》まり、迷うのは当たり前だった。 (……それでも自分はまだF選ぶしことができる。差し出されるいくつもの手がある。)  目を閉じれば、ひとりばっちになってしまった弟の姿が|脳裏《のうり 》に浮かぶ。   −かつての自分と同じ、|完璧《かんぺき》であらねば許されない場所に、これから先、一生ありつづけなくてはならない弟。逃げ場所はとうになく、もはや選ぶこともできぬ道に、たった一人で。  自分には幼い末の弟がいたが、今、弟のそばには誰もいない。  公子でない自分が、彼に手を差しのべてやることはもほやできはしない。  卓子《たくし》に突《つ》き刺《さ》さった大剣を溜息混じりに引き抜《ぬ》いている男を見る。  遥《はる》かな昔、この男が自分に向けた顔を覚えている。膝下《しっか》に脆《けぎまで》き、うつむいた顔のその下で、敬意を表する言葉とは裏腹に心は藍家に預けているのが見てとれた。  まだ子供で心を隠《かく》す術《寸ペ》が下手なこともあったがー冷笑したものだ。  上の兄たちと同じだ。互《たが》いに信用はしても信頼《しんらい》はしない。役に立つうちは利用する。藍本家の男が脆き、王家の男が受け入れて配下にするというのはどこまでもそういうことだった。  今でもそれは疑わない。  今の藍楸瑛や李絳攸ではとうてい『清苑公子』にはなれはしない。けれど−。  ゆっくりと、静蘭は|微笑《ほほえ》む。  ……劉輝の心の在処《ありか》は、まだたった一つだけ残っている。  奇蹟《させき》のようなあの二人の出逢《であ》いを、静蘭は心から天に感謝した。  そして、思いだす。いちばんはじめに武官を選んだとき、自分が何を思ったか。  自分の幸せが、どこにあるのか。  そうして、『道』は、見えた。 「そういえば、ずっと訊《ゝ1−》いてみたかったんだけど」  三十七回目の飲み比べをしている大将軍二人と臼を合わせないよう必死の努力をしながら、軟環は大剣の次に槍を引き抜きにかかった。静蘭は|珍《めずら》しいくらい酔《よ》っていたが、多分軟瑛も自覚なしに相当酔っていたのだ。でなければ到底《ヒうてい》訊けなかったろう。 「もし、主上と秀靂殿と、どちらか選べって言われたら、君はどっちをとる?」  閉じかけた|瞼《まぶた》を少しあげ、静蘭は鮮《あぎ》やかに笑った。  いささかも迷わず答えを告げてー�そして今度こそ彼は眠りに落ちた。  楸瑛ほ苦労して抜いた槍を立てかけると、自分の盃《さかずき》に酒を注いだ。 「なるほどね」  苦笑《くしょう》しながら盃を傾《かたむ》けようとしたが、窓に視線をやってやめる。  場違《ぱちが》いな文官姿でふらふらと歩いてくる友人のために、新しい盃を用意しはじめる。 「よくここまでこられたな……。そうか、深く道筋を考えない方が迷わないんだな」  もともと狂《くる》っている方向感覚にさして頼《たょ》らなかったから、目的地にたどりつけたのだろう。  そこまで絳攸が別の物事にとらわれるとしたら何か、容易に察しはついた。  楸瑛は、兄からきた文と、突然《とつぜん》貴陽に出没《しゅつぼつ》した末の弟を思いだす。  ……水面下で、確実に状況は動いている。  とりあえず、二匹《ひき》目の迷える頑固《がんこ》な子羊の特効薬も酒だろうと、楸瑛は思った。  詞�ー…さ——………一.t..……軋 「おめでとう紅州牧。よく頑張《がんば》ったね。旦那《だんな》様から話は聞いたぞ」  邵可邸を訪ねてきた柴凛に、秀鹿はズキズキする頭をおさえて懸命《〓∵んめい》に笑った。 「ありがとうございます。なんとか……引っ張り出せたようで」 「三《ヽ》日《ヽ》酔《ヽ》い《ヽ》に効くとっておきの薬をもってきたから、飲みなさい」  素直《すなお》に領《うなず》いて薬を飲む秀麗を見ながら、何やら柴凛は首を傾《かし》げた。 「悠舜殿が乞《こ》われてお知り合いにこの薬を分けてしまったから、あやうくなくなるところだったよ。どうも軍で相当数が再起不能になって、その中には知人の文官もいたとかなんとか」 「へー……」 「ああ、そういえば君は朝廷で一躍《ちょうていいちゃく》大人気になっていると悠舜殿が言っていたぞ。酒飲み|自慢《じ まん》の官吏《かんり》が勝負を申し込もうと君の登城を待っているらしい」秀麗はがっくりと肩《かた》を落とした。……な、何かが絶対間違っている。 「とはいえ、少しの間は自重しておきなさい。第二決戦が控《ひか》えているのだからね」  秀麗がハッと顔を上げると、柴凛が魂爽《さつそう》と笑った。 「手札はそろった。次に釣《つ》り上げるのは全商連だ。今度は旦那様の代わりに、私が姫君のお供をつかまつろう。全商連茶州支部長最後の大仕事を飾《かぎ》るにふさわしい。獲物《えもの》を残らず釣り上げて、意気揚々《ようよすフ》と茶州に帰ろう」頭痛はどこかへ吹《ふ》っ飛んだ。秀麗ほ力強く肯《うなず》いた。 「はい!」       ・報1塘・  茶州−紅杜《す」−つト】》邸にて、影月と香鈴は二人で食事をとっていた。燕青は仕事のため、すでに州府に出かけている。 「ごちそうさまでしたー」  きちんと手を合わせる影月の一挙一動を、香鈴は注意深く見つめていた。  空になった食器を片づけるため、庖厨《だいどころ》に向かおうとした影月を香鈴は鋭《するご》い声で呼び止めた。 「お待ちになって」 「はいー?」  おっとりと振り返った影月を、香鈴は厳しい表情でじっと見つめた。そして−。 「……あなた、影月様ではありませんわね」  低い断定に、影月ほ|驚《おどろ》いたように目を丸くした。かと思うと、次の|瞬間《しゅんかん》その顔はもはや影月  ではなくなっていた。  猫《ねこ》のように吊《つ》り上がった目には、影月のものではありえない皮肉げな光が揺《わ》れる。 「努《ま》めてやるぜ。よく気づいたもんだ」 「や…つぼり、あなた�」  陽月《ようげつ》は視線だけで、香鈴が箸《はし》を付けていた皿を見下ろした。 「影月を長く留めておきたいなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ11》、これから先徹底《てってい》的に酒を排除《はいじょ》することだ。菜に使うことは勿論《もちろん》、もう|匂《にお》いでも|駄目《だめ》だな」ふと、馬《ばわ、》鹿なことを言ったというように|眉《まゆ》を寄せると、陽月は|踵《きびす》を返した。  香鈴は思わず|叫《さけ》んでいた。 「あーあなたは、なんなんですの!?あなたはー影月様とは違いすぎますわ!!」  ピクリと、陽月は足を止めた。次いで振り返ったその眼差《.1なで..》しは、氷のように冷たかった。  香鈴は思わず身を退いたが、目を逸《ぶ、》らしはしなかった。  影月が、金華へ行く|途中《とちゅう》に克胸に言っていた言葉を思いだす。 『僕と違《らが》って、あなたにはお金も時間《ヽヽ》もある』  思い返せば、いつだって彼は、言葉の一つ一つで、『時』を気にしていた。  香鈴の胸がつぶれそうなほどしめつけられる。  そ《ヽ》の《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》を思いついてから、誰にも言えずに考えていた。考えたくなかった−のに。  影月が、急に、態度を硬化《こうか》させた−その理由は。  余裕《よゆう》がないと告げたのは、本当は心のことではなく−。 「あなた−あなたは、影月様をのっとろうとなさっているのでほありませんの!?」  泣きそうな顔で叫んだ香鈴を、陽月は|冷徹《れいてつ》に見下ろした。  決して目を逸らさないことがわかると、陽月ほ鼻を鳴らした。 「……あいつの、本当の名を教えてやるよ」 「え……」 「月《げつ》、だ。影月は、オレがつけてやった名だ《11111111111》」  長い|前髪《まえがみ》をかきあげながら、陽月は嘆笑《こうしょう》した。 「オレの影になることを選んだあいつに、ぴったりだと思ってな」 「なー」 「女の勘《かん》ってやつか?ずいぶん鋭いもんだ。——ー星が流れた。あとは砂のように時は欠けていくだけだ。お前の考え通り『杜影月』はそう遠くないうちにこの世から消える。永遠にな」香鈴は膣目《ごうもく》した。そして意味を理解すると——ーガクガクと震《ふる》えほじめた。 「|嘘《うそ》……ですわ」 「てめぇでいっといてなんだよ。それでもできるだけ保《も》たせたいってんなら、酒を排除するしかないっつってんだ。ますます残りの時間が短くなるぜ。まあ焼け石に水だがな」 「あ、あなた−あなたが!」陽月は口の端《はし》を釣り上げて、冷然と笑った。 「そうだな。まあオレが殺すようなもんだ。『陽目《オレ》しを外に出せば、『影月《あいつ》』の命はそのぶんだけ尽《つ》きてくからな。それでいえば、わざと自分の皿に酒滴を垂らして匂いだけでもオレが出るようになったか試そうとしたお前も、影月殺しに一役買ったってわけだ」振り上げられた繊手《せんしゅ》を、陽月は軽々とつかみとって振り捨てる。勢い余って香鈴が床《ゆか》に叩《たた》きつけられたが、陽月に宿る冷ややかな眼差しは何も変わることはなかった。 「もともと、いつまであいつが保《ヽ》つ《ヽ》かわからなかったからな。今までが短かったのか長かったのかも知らん。残りの時間を有意義にすごしたらどうだ。影月は最初からそうしてるぜ。いつ死ぬかわからん体を抱《ム∵乃》えて、まあよくやったほうだ。やりたいことをやれるだけ、つかめるものはつかめるだけつかもうとしたあの|根性《こんじょう》は認めよう。酒を入れれば、オレが出る。条件はたったそれだけにしてやった。あいつが死のうがどうしょうが、オレには関係ない」言うだけ言うと、陽月は香鈴を一顧《いつ二》だにせず、踵を返した。  うずくまった香鈴の瞳《けとみ》から、涙が幾《なみだいく》筋もあふれた。         容態ゆ歯翁  影月より先に登城した燕青は、ざっと机案《つくえ》に積まれた仕事に目を適し−ある一通の書簡に目を留めた。 「若才からじゃん。�邪仙教″ってのはあいつがこんなにかかずらうくらいヤバいのかぁ?……お、でもやっと戻《もど》ってくるのか」  すぐ帰ってくるはずだった著才から、静蘭の虎林郡視察延期の要請《ようせい》とともに、しばらく留《とど》まる旨《むね》をしたためた書簡が届いたのは秋の終わり。  理由は、虎林郡で�邪仙教″というあやしげな集団が巣《一プ》喰《く》いはじめたということだったが。 「……現段階では|妙《みょう》な説法しかしていないから、一時帰城するってか。……著才《あいつ》が『現段階』ねぇ。相当慎重《しんちょう》だなあいつ……」かいつまめば、著才の書簡は次のようなものだった。 『こういう信仰《しんこう》集団は軽く見て無視していると、いつのまにか鼠《ねずみ》のように増えて手に負えなくなる。かといって何もしてないのにしょっびくわけにもいかない。兵を置いて地に潜《一じぐ》られても困る。つかず離《はな》れず見張って、虎林郡の丙《へい》太守に逐一《ちくいち》報告させるよう要請した』 「……だから静蘭に延期しろっつったのか。まあ、丙のおじじなら安心だけど。……ん?」最後に、著才が|滞在《たいざい》中に調べたとおはしき簡潔な調査書が添付《てんぷ》されていた。  燕青はゆっくりと日を通したのち、最後の一行で眉を寄せた。 「�邪仙教″教祖−『千夜h〜」  それが、かつて金華行きまでの間、秀麗と過ごした茶朔海の仮の名前であることに燕青が気づくのは、もうしばらくのちのことになる−。         瀞壌㈴命翁 「……国試前に予想していたより、杜影月の時間ほ少なかったか……」  高楼《こうろう》で宵大師と酒を酌《く》みかわしながら、棄《よう》医師は茶州の方角を見た。ついと目が細まる。 「あれでは、もう幾らももたん……」 「伝説の名医のお前でもか? 黄葉《こつよ∴ノ》」 「馬鹿言え。ダラダラ生きてりゃ知識なんぞ勝手に溜《た》まるわい。たまたまお前が政事で、わしが医術なたけじゃい。だが、時に人間はそんなもんカッ飛ばして越《二》えていくヤツがいるから面《おも》白《しろ》い。たとえば茶鴛泡《え人ビゆん》であったり、異州の一堂主であったりな」葉医師の言葉に、寄大師はただ背《うなず》いた。  そして−不意に二人の眼差しが険しくなった。 「盗《ぬす》み見盗み聞きとは、ずいぶん|行儀《ぎょうぎ》が悪くなったものだな、繰《ひよう》家の」  宵大師が手首をひるがえして投げつけた盃が《さかずき》、空に浮《う》いたまま止まった。  そして盃をとる青白い手が現れ、腕《うで》がつづき�二人の老師と少し離れて立ったのは、銀白色に金をひとしずく溶《と》かしこんだかのような月光色の髪《かみ》をたなびかせた青年。 「申し訳ありませんね。|珍《めずら》しい光景に、つい」  二十代前半とおぼしき青年は、老師二人の冷徹な眼光にも居すくむことなく、口の端《‥りし》だけで  倣岸《ごうがん》に笑った。 「お前が貴陽にくるはどじゃないわい。とっとと山に帰れ。えい塩!」  つまみがわりの塩までまいた葉医師だったが、夜の青年はあっさりかわしてしまった。 「帰りますよ。さがしものを手に入れたら」  歌うような声音に、宵太師と葉医師の眼差しがいっそう憬酢《ヽも1.ヽ′》さを帯びた。 「……五体満足で帰りたくば手ぶらで帰れ、|小僧《こ ぞう》」 「ただの人間が。多くを望めば身を滅《はろ》ぼすと知れ」  二人の言葉は氷のように凍《−一Y》てついていた。  けれど夜の青年は、くすくすと笑ってその氷の矢をかわした。 「幸か不幸か、ただの人間でほありませんからね。私は私の好きにします。−そうそう、きっと茶州でまた面白いことが起きますよ。杜状元は、幸せな夢を見ることができるかもしれませんね。ほんの一時《いつとき》の、惨《はかな》い夢ではありましょうが」繚色の衣をひるがえし、銀つむぎと夜の色の青年は姿を消し、あとには二人の老師の険しい顔だけが月に照らされていた。  あとがき  |皆様《みなさま》、志《つつが》なくお過ごしでしょうか? 執筆中、《しっぴつちゅう》いきなり家を飛び出して近所のカラオケ屋に駆《か》け込《こ》み、一人で《ヽ〜1》一時間歌って帰ってきた雪乃紗衣です(寂)。外に出る気があるだけマシですが、だんだんナこかの等級《プしード》が上がってる気がしますよ……ただしマイナスベクトルで……。  さてさて本編としてほ六冊目、 「白銀」になります。そして影月編、開幕です。茶州編の 「茶都」 「漆黒」のあとがきでも、何書いてもネタバレになる製《一圭う》若様をスルーしまくりましたが……(一文字もない…)。今回も影目について何を書いたらいいのやら……。  まあ、あれですね、意外と私は|容赦《ようしゃ》がないということと、ドナドナに人気は関係ないということでしょうかね。……よかったな静蘭、新担当様のおかげで出番が増えたよ(これでも…)。  同じく楸瑛も新担当様のご品展《ひいき》により(全然関係ないのに)ついに表紙に。影月を推《お》した私と担当様の間で三分間の激烈《げされつ》な戦い《パL 「ル》が摘�た。とは秘密です(笑)。かんべき今巻からは、秀麗以外にも変化が訪れます。どのキャラも決して完璧ではありません。彼らが迷いながら選択《せんたく》する道を、特に影月の未来《さき》を、もう少しばかり見守ってやってください。そういえば皆様、菖蒲《しトゃつぷ》と花菖蒲《はなしよ∴ノバ》は違《ちが》うのですユー。端午《たんご》の節句に飾《かぎ》る菖蒲はサトイモ科で花はちょっと地味目、華《はな》やかな花を咲かせる花菖蒲はアヤメ科で、品種から違います。花以外は似ているので菖蒲でも良かったのですが、 「「紫《むらさ\、》の花』キーワードのために花菖蒲になりました。  いやー秀麗がいなかったら、経仮と楸瑛は貰いを優先する作者によって、絶対サトイモコンビになっていたでしょうね。だいたいアヤメよかよっぽどら《ヽ》し《ヽ》い《ヽ》と思いませんか(↑ひどい)。  また、彩雲国ドラマCDの二巻目を発売して頂けることになりました。皆様のお声により急《き時う》遽《きよ》二枚組に決定したことを聞き、勿体《もつたい》なく思うと同時に、真実作者冥利《みょうり》に尽《つ》きました。彩雲国を好きと言ってくださるすべてのかたに、心からお礼を言わせてください。燕青をはじめとする新キャストがお目見えする今秋、よろしければどうぞお手にとってみてくださいませ。  頂くお手紙は変わらずすべて執筆の大事な源です。が……し、仕事のほうが一段落つくまでお返事はだいぶ待って頂くことになりそうです(汗)。本当に申し訳ありません……! 結びの最初は前担当様に心からの愛と感謝をこめて。あなたなしでは彩雲国は今、この形で在ることはなかったでしょう。教えて頂いた多くの大切なことは、すべてかけがえのない宝です。今まで私と彩雲国を支えてくださり、本当にありがとうございました……! そして新担当様、えー、も、もうポロが出まくってますが、これからどうぞよろしくお願いします! そして皆様、 「漆黒」の表紙と他の巻を見比べてみてください。 「他の巻はふ《ヽ》わ《ヽ》雲《ヽ》だけど、漆黒はど《ヽ》ろ《ヽ》ろ《ヽ》雲《ヽ》なの」由羅先生のこのお言葉に、私がどれほど感激したかしれません。由羅先生と出会えた彩雲国も私も本当に過ぎるほどの幸せ者です。  それでは皆様、しっかりご飯を食べて水分補給をして、暑い夏を乗り切ってくださいね。                                 雪乃紗衣